法の秩序を守るには(アメリカと日本とは人口密度が違うのです。)

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 アメリカに行けば、わかるが、アメリカは途方もなく広い国なのである。アメリカの平均的な人口密度は、29人/km2なのである。日本はといえば、平均336人/km2なのである。ちなみに、北海道全体では、71人/km2なのである。それだけ、人と人との密着性がない国なのである。それだけ、個人というものが、しっかりと確立されているのである。あえて、そこに進入するものがいれば、それはある目的をもって進入したことになるのである。その意味からいえば、自衛や護衛のための銃が必要だと、思うのは当然かもしれないのである。問題は、それを犯罪に使う目的だから、悪いという論理なのである。まさしく、自衛隊と同じ論理なのである。侵略という邪悪な目的で、軍隊を使用するのはわるい、しかし、自衛上、必要だから、自衛隊が合憲だという論理と同じなのである。したがって、自衛隊をなくすことが出来ない以上、アメリカも銃を撤廃することは、不可能なことなのである。

 

 人口密度が、高いということは、それだけ、同じ面積の中に、人が多く住んでいるという事なのである。人は、生まれたときは、0である。何もわからない状態である。そして、大人になって、ある考え方をもつのである。その間の環境因子がその人の考え方に影響を及ぼすのは、当たり前なのである。アメリカ的な考えというのは、人口密度29人/km2の中で生まれたものであるということをしっかりと認識すべきなのである。物理的に、密度の差は、質量の差になるのである。それだけ、各個人間のポテンシャルエネルギーは少ないことを意味しているのである。それだけ、安定しているのである。だから、個人というものの差を認めることができるのである。自由に動いても、他人と接触する確率がすくないため、何かあっても、その他人に影響を及ぼす確率がすくないのである。だから、個人の自由を大幅に制限する必要はないのである。アメリカ的な発想とは、そういうものなのである。日本とは違うのである。その違う物差しを日本に当てても、おかしくなるのは当然なのである。日本の人口密度は336人/km2である。10倍以上違うのである。満員電車を見れば、分かるとおり、動くこともできないのである。それだけ、エネルギーをもっていて、不安定だということなのである。ばらばらになろうとするものを、外部から抑えなければならないのである。本来は、各個人は、お互いを尊重しあっている。自分たちのエゴを出せば、ばらばらになる。反発力が生じるからなのである。それが、お互いが助け合い、いたわりあうことで、各個人のエネルギーを下げていて、他人と衝突する確率を下げているのである。だから、地方にいけば、ドアーに鍵をかけなくても、安心して生きていけたのである。それが、日本の人口密度をベースにした安定した日本文化だったのである。そこには、法律など、いらなかったのである。何も言わなくても、それが当たり前、それが人としてのあり方、その村や地域で生きる人のしきたりだったのである。法律というのは、内部的に孤立し、それぞれがエゴを出し、他人と他人との囲いをもったために、生まれたものなのである。外部から押さえ、秩序をまもるための手段なのである。だから、法律には、崇高な精神も理論などないのである。人々がその人口密度の個々の人が、自発的に、それぞれのやり方で、楽しく、平和に生きていれば、法律などを持ち出す必要はないのである。個人が、自分たちのエゴをだし、個人と個人間との間に垣根を作り、その反発力が、大きくなって、その集合体が分裂するのを抑える外部からの力として、法という考え方がうまれたのである。法が最初からあったのではないのである。

 楽しく、平和に生きていた部落に、人間の欲望をもった文明人が入ってきたのである。その部落には、金が埋蔵しているのである。その部落の人は、だれも金に価値をもっていないのである。たんなる綺麗なものでしかなかったのである。それが、価値があり、それをもつと、莫大な利益が転がり込むと教えたのが、文明人なのである。平和に暮らしてきた人たちに、差別を教えたのである。その金が埋蔵している人と、金が埋蔵していない人に、差別をつくり、金を持っている少数のひとに、金を持っていない多数の人を支配させる原理を教えたのである。金を持っていない人を抑えるために、法律をつくったのである。それと同じことなのである。秩序をまもるために、必要だったのである。それと、金をもっている少数の人に欲望をおしえたのである。無制限な自由という考え方を教えたのである。そして、金を持っている人に、文明人が信じている神様を信じ込ませたのである。金を持っていない人が信じている神様は、邪教である。そんなものを信じている人だから、金が持てなかったのだと教えたのである。いつしか、文明人が信じている神がすべてとなり、持てるものと持てないものとの囲いができ、それを法律という縛りで安定化させたのである。

 

 法律では、何も変わらないのである。日本は、アメリカと違うのである。すくなくとも、人口密度が違うのである。それが考え方の違いを生むのである。法律があっても、罪を作る人は、いるのである。法を犯すのではなく、罪を作るのである。個人のエゴを奨励するのが悪いのである。人口密度が多い国は、自由は、一人一人の財産や人格を尊重できる範囲の自由でしかないのである。アメリカとは密度が違うからその自由の範囲が限定されているのである。同じ欲望をもったとしても、密度が多ければ、手に届くところに物があるのである。窃盗しやすい環境になっているのである。

 

 ある意味、安部前首相の考え方は正しかったのである。秩序を再構築しようとしていた首相自らが、あわてて乱れすぎて、墓穴を掘ってしまったのである。安倍前首相が、遣り残したものがあるのである。なら、大上段に振り構えるのではなく、目線を国民にあわし、全国をその足でまわりながら辻説法しその必要性を訴えるのが、いいのである。ちょっとした事で、万引きをし、そのあげく人を殺すような馬鹿な若者をこれ以上だしてはいけないのである。殺した方も不幸であるし、殺された方は、本当に救われないのである。

 

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このページは、中野満が2007年10月 8日 16:02に書いたブログ記事です。

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