個人の一生における協調性(協和性)と独自性(不協和性)、宗教の必然性

| | トラックバック(0)

 ある程度、人間というものをやって、世知辛い世の中を歩いてくると、段々と、世の中のありようが見えてくる。もちろん、私と接触し、作用を起こした人も多くいるし、相手から作用を受けて、己の生きる航路も変更を余儀なくされたこともある。しかし、それも、一度の人生である。一期一会の人生だと、割り切れれば、そんなものかなで終わってしまう。世の中は、なぜか交じり合うものと、交じり合わないものとで、成り立っている。電気的に言えば、ブラス極とマイナス極である。易経的に言えば、陰陽である。人間的に言えば、男と女である。神話的にいっても、陰陽が交わり、新たな命(神)が創生されることになる。そして、終わりも、陽が、陰にもどり、そこに光が生じて、陰陽が消滅して、空となるのである。概ね、素粒子の創生と消滅の原理と合致する。世の中は、なぜか、そういうふうになっているのか、そういうふうに、人間には見えるのかはわからないが、とにかく、そういうものらしい。

 

 戦後、欧米の考え方が教育現場に入ってきた。もちろん、欧米には、キリスト教の文化が数千年受け継がれている。生まれて物心ついたときから、そういう環境で育てば、そういうものかと思ってしまう。個性を大事にしなさい。自由ですよ。隣人を愛しなさい。博愛主義である。大切なことである。そして、言葉では理解するが、どうしても、感覚的に理解できないのは、キリスト教的な神のありようなのである。神様の視点から見れば、人間は罪な存在である。そこに、あきらかに、不協和性があるのである。だから、神の教えに従えば、そこに協和が得られ、安寧がありますよというものである。それで、いいのなら、それはそれでいい。それが宗教というものである。それを、たんにそういうものであることとして教育の現場でそれを教えたのである。それとは、何か、それとは、協調性なのである。ある意味、人としての理想を教えたのである。だから、日本は戦後栄えたのである。逆なのである。欧米には、協調性はない、独自性である。神の世界にいったあと、協調が得られるのである。だから、人間は罪な存在なのである。罪とは、独自性なのである。だから日本に、人間が罪なる存在だという意識はない。欧米人も、その文化基盤が弱い環境で育てば、別な協調性を求めたがる。多くの欧米人が、禅や密教に憧れるのは、そういう心理である。

 

 基本的に、どのような宗教も、構図は、協和と不協和との構図である。自分があること、自分を認知できる者は、外部と識別される自分を意識できる存在である。だから、自分が存在できる。独自性である。しかし、分からないことがある。自分の外の世界はわからないのである。自分は不安定なものである。永遠の命などない。いつか、終わりがくる。どんなに栄華をほこっていようと、どんなに権力や財力があろうと、人には終わりがくる。どんな人でも、必ず、死の不安や生存の不安はあるのである。ある意味、それを紛らわせるために生きているといっても過言ではない。だから、人は協調性に憧れをもつのである。協調性に美しさをもとめるのである。だから、みんなといっしょに、歌を歌うのはたのしいはずであるし、みんなと一緒に踊るのもたのしいはずであるし、みんなと時を忘れて何かをすることは、基本的に楽しいはずである。それが、生きること、つまり、協調性を求めることに他ならないのである。ある意味、協調性の世界から自分が分離され、独自性を付加され、そして協調性ある世界へと回帰する、それが、個人の一生でもある。だから、若いときは、だれでも独自性をもつ、俺は違うんだ、俺は偉いんだ、いつも、俺、俺、俺という意識をもつ。ある意味、当然なのである。しかし、社会はある程度の協調性を人に要求する。そのバランスが感覚的にわからないと、その人は痛い目にあうことになる。「社会を、世間をなめたらあかんよ」という言葉になるのである。

 

 人間は、最後は、この世とあの世の境がわからなくなる。安心したらいい。だれでも、40度以上の高熱があり、ふらふらしていたら、自分を意識することなどできない。それと同じように、自分が自分を理解できないようになる。独自性は消えることになる。眠るのと同じである。ただ違うのは、次に目が覚めるかどうかである。それは、どうすることもできない。それが、定めである。独自性を強めなさいという教育を受けた頭のいい人ほど、その意識が強いはずである。しかし、出口(あの世への架橋)には、それは捨てなければならない。そこに、必ず、不安が潜伏するはずである。その不安を少なくし、緩和させるのが、宗教というものである。昔は、赤ひげ先生がいた。日本の独自の協調性のある神話をもとに、やすらかな眠りにつけるように、患者を指導した。医は仁なりというのは、そういうことが出来る先生のことを指したのである。

 

 後期高齢者が増えてくる。団塊の世代が増えてくる。独自性から協調性の論理を広めて、心のケアーをしていかないと、逆に、不安を回避しようと人ははやくぼけるようになる。金儲けを主体と考える宗教法人は論外だが、仏教でもキリスト教でも、神道でも、日本の風土にある先祖崇拝にしても、協調性のある世界へ移行し、自分の意識を包み込んでくれるもの(考え方)と触れ合えれば、それはそれでいいはずである。逆に、どれでも同じである。その宗教に従事している人は、それを絶対とみているが、我々はそれを相対的にしかみえない。なぜなら、宗教に従事してそこから収益を得て、生活をしているわけではないからである。目的は向こう側にあるのではなく、自分が、どの宗派のロジックを取り込めるかなのである。ある意味、お迎えがくるまで、どのロジックと同行二人できるかなのである。今後、このような需要がふえていくはずであり、テレビも新聞もマスコミも、このような協調性のあるテーマに対する番組を作るはずである。ある意味、エコロジーともつながる話なのである。

 

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 個人の一生における協調性(協和性)と独自性(不協和性)、宗教の必然性

このブログ記事に対するトラックバックURL:

このブログ記事について

このページは、中野満が2008年12月 3日 11:22に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「性能UPでコストダウンのエコでなければ、経済は動かない。」です。

次のブログ記事は「大不況は、仮想空間の見えざる神が作ったもの。」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。