視覚に障害をもつ人たちにとって音楽とは。
何気なく生きていると、何気ないことに気づかないものである。普段当たり前とおもっていることも、その当たり前が外されると、当たり前でなくなる。病気になると、健康のありがたみが分かる。ガンの告知をうけ、抗がん剤の治療に打ち勝ち、自己の免疫力が復活し、がんを克服した人にとって、その死の淵をさまよった経験は、何事にも換えがたいものとなる。聴覚も視覚もともに、恵まれていれば、それが当たり前となる。それを失うことの悲しみは、当事者以外、わからない。擬似的に耳をふさいだり、目をふさいでみても、それが、恒常的なものではなければ、邪魔くさいで終わってしまう。後天的なら、失うまでの記憶があるから、その残像や残響は、心の中で、残っているはずである。もし、先天的に、聴覚や視覚が不自由であれば、それがどんなことなのか、みえるということ、聞こえるということの意味さえもわからない。
自分は、五体満足である。聴覚も視覚も、年齢とともに、段々と衰えてきているが、それでも、日常生活に不便はない。過去に生死をさまよった病気はしたが、それ以外、自分の存在を揺るがすようなことは、まだない。そして、何かの、偶然や縁で、視覚障害者の人たちと仕事関係をもつようになった。たいそうなことではないが、視覚障害者の気持ちを理解しなければならない場と遭遇する。聴覚を失うことは、音を失うことである。視覚を失うことは、光を失うことである。むかし、読んだ、ヘレンケラー女史の伝記を思い出す。確かに、どちらを失っても、苦痛に違いない。
もし、視覚が失われれば、ひとりで行動することが出来ない。人間には、感覚的なGPSがあったとしても、頭の中の位置の感覚を覚えるには、それなりの修練がいる。杖を突いて、歩いて、交通機関に乗って移動している人がいる。生きるために習得した技である。視覚がないために、それを補う気という感覚が機能しているのであろう。天候や外気の状態は毎回変わる、人間が運行している交通機関だって、変化する。しかし、それを毎回、打ち勝って、目的地まで到着する。何気ないようだが、自分を視覚障害の人の立場におけば、それがどれほどすごいことがわかる。そんな光景をみるだけで、ただ、頭が下がる思いがする。そして、それの補助をしてくれるのが、盲導犬である。よく、テレビでその訓練方法等、報道されるが、視覚障害の人たちにとっては、確かに、必要な友達にはちがいない。全員に当たればいい、しかし、盲導犬を育てるのに、莫大な時間と資金がいるのもまた事実である。なかなか、難しい問題である。
視覚がないということは、みえないということである。みえないから、逆にみえない何かが見える(感じる)こともある。だから、逆に視覚障害の人と対峙すると、自分の心が見透かされているように感じる。相手は、こちらの存在を必死になって手繰り寄せようとする。そして、耳をたてて、こちらの話を真剣に聞こうとする。なんとか、コミュニケーションを図ろうと、こちらから発するものすべてを感じ取ろうとする。確かに、音から映像に変わるだけで、莫大な情報量になる。何気なく見ているだけでも、そこから情報が取れる。しかし、それが、触覚を別にすれば、聴覚だけで、得られる情報にはやはり限りがある。だから、こちらから発するいかなる音も見逃さないようにする。こちらが気づかない癖も、相手は、それを感受する。人には防衛本能がある。相手が自分にとって良い人か悪い人かも、その音とその人から発する気を読んで判断しなければならない。
だから、視覚障害の人はいい音楽を求めている。その一つ一つの音階に、作曲家の思いまで読みとってくれるはずである。その一つ一つのメロディに付加された言葉に、作詞家の思いまで読みとってくれるはずである。彼らの中に、取り込まれた音楽は、ばらばらに分解され、その中に秘められた真実を見定めてくれるはずである。もちろん、歌手の歌声も濁りのないものであれば、ある意味、視覚障害者の人に愛される曲ほど、名曲だと感じる。そこに作詞家と作曲家と歌い手の人間としての魂があれば、視覚障害の人々は、その魂を魂のまま愛してくれるものだと感じる。
同じ人として生まれても、障害を持つものと障害を持たないものがいる。同じ人として生まれても、長く生きられる人もいれば、生きられない人もいる。同じ人として生まれても、自ら命を絶つ人もいる。たぶん、この世のありさまから見れば、ほんのちょっとした差なのかもしれない。この世のありさまからみれば、それも誤差の範囲であると片付けられそうである。最後の晩餐ではないが、滅び行く人にとっての最後の音楽とは、いったいどんなメロディなのだろうか。
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