走ることと生きること。般若心経の空の意味。
残念ながら、人には命がある。一つ一つの物質が精巧に組み立てられ、それを纏め上げ維持していく力が、命というものである。それも限界がある。それと、なぜか分からないが、意識というものがある。それがあるから、自分と他人とを区別することができる。AさんならAさん、BさんならBさんである。命というものがあり、そして、他人と自分とを区別する力、自意識がある。この二つがあって、初めて生きるということになる。
ほぼ毎日、5km前後を走っている。何故、走るのかと聞かれたら、健康のためだと答える。意地が汚いので、食事量を制限できない。基本的に、体重は、消費と吸収のバランスの上になりたつ。食べるのであれば、消費しろということになる。だから、走っている。加齢していくと、脂肪が体についてくる。どうしても、血圧が上がってくる。消費しなければ、血圧が、私の場合、上がってくるのである。もちろん、無理な走りなどしない、平均7km/h前後ぐらいの速度であれば、足にも負担がない。別に誰かと競い合うつもりなど、毛頭ない、だから、ゆっくりと走ればいい。そうすれば、距離も自然と伸びてくる。疲れもなく10kmぐらいは軽く誰でも走れるようになる。もちろん、タバコを吸っていては、息があがって、数キロも走れないはずである。
今は、星が綺麗である。冬のオリオン星座が天空に上がっている。私は大阪の堺に住んでいるが、それでも、オリオンの三ツ星は綺麗に見える。もちろん、私の視点からみれば、みっつ、横にならんでみえるが、立体的にみれば、ばらばらである。奥行きも違うし、距離もちがう、ロケットにのって、宇宙にでれば、地球から見えるオリオン星座を識別することは出来ない。あくまでも、地球にいる私の視点からみて、オリオン星座を構成する星星はあのように私にとっては見えるだけなのである。宇宙をみていると、なぜ、宇宙があるのかと誰でもが考える。何かの目的があって存在しているはずである。そういう意識が働いて、昔の人は、神様という存在を考えた。そう、神様という存在を考えなければ、理由が分からないからである。
ふと、走っていると、もしかしたら、自分は、音楽でいう音符なのかもしれないと感じる。この人間社会の平面上に、誰かが、音符を書き、それが奏でられているような錯覚を覚える。その音符が、時間軸に対して、振動し、音楽がなる。その音楽が、私の人生なのかもしれないと、思うようになる。その波動のスピンこそ、自意識であり、その波動のスピンが終われば、自分も消えてしまうと思うようになる。だから、私が見聞きするものは、すべて幻なのかもしれない。実態があろうとなかろうと、私のスピンがとまれば、それもきえる。しかし、私が消えても、この宇宙の原理は残っている。私がこの宇宙の原理を把握できない以上、それを証明できない以上、私たちの上には誰かがいる(何かがある)と思ったほうがただしい。それは、神なのかどうか、誰も証明することはできない。だから、私が見聞きするものは、空であると判断したほうがいい。空というよりも、分からないものというのが正しい。分からないから、空としたのである。私が知っている限り、この世の実態を空と言い切ったのは、般若経しかしらない。あの有名な般若心経の親分である。
どうしても、分からない。だから、論理的にいえば、我々の知っているロジックと違う何かが、存在しているということになる。それが、永遠に続くのかどうかも分からない。確かに、ビッグパーン宇宙が存在している。しかし、どう考えても、この宇宙の外側はどうなっているのか分からない。そう、本当にわからないのである。すべてが仮説なのである。ということは、我々よりも上位概念の世界があるということである。その上位が何個上にあるのかわからない。そう、すべては分からないのである。
ただ、私がわかるのは、世の中は、音楽的にながれているということである。協和するものが美しいということである。音楽的なら、ハーモーニーとリズムとメロディである。それらが、美しければ、たぶん、人は幸せであるし、仮に不協和を作れば、何かが起こり、結果的には協和するところに落ち着く。不協和とは、不安定であり、協和とは安定するところでもある。ある意味、物理の法則や世間の常識どおりということなのである。だから、もちろん、私も神様のお告げをいうことができる。自分という意識を捨て、この宇宙の流れの中に身を置けば、世の中の流れを感じることができる。それを感じ、音楽的にいえば、楽譜化すればいいのである。不協和するものは、協和するものへ、相転移を起こすことになる。それをいえば、それが、まさしく、神様(上位概念)からのお告げということになるはずである。
夜に、ただ、ひたすら、音楽を聴きながら走っていると、そんなことを思う。きっと、私が走れなくなったとき、そろそろ、私にもお迎えがきたかなと感じることだと思う。今は大不況、不協和が奏でている。それは、協和する方向へと必ず動く。だから、つらいかもしれないが、あわてず、過ごすのがいい。そして、乱れの中心がわかれば、それから、できるだけはなれたほうがいい。津波と同じである。
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