タレントの価値と人の一生
マイケルジャクソンが死んだ。50歳だそうである。同じ日に、NHKで、故美空ひばりさんの追悼番組がやっていった。美空ひばりさんが亡くなった歳は、52歳である。そして、その数日前後、石原裕次郎さんのやはり何回忌かの追悼番組がやっていた、ともに二十数年間の月日がたっている。裕次郎さんも亡くなったのは、52歳である。織田信長が光秀に本能寺で打たれたのが、信長49歳である。そして、打った明智光秀も53歳前後である。そして、織田信長が好んで演じた舞が、敦盛である。「人生五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののなるべきか、これを菩提の種と思い定めざらんは、口おしかりき次第ぞ」である。時代が、変わろうが、人の命はかわらない。なぜか分からないが、どうも、人生の一区切りは50年には変わりがないようである。
車の価値は、車にある。車を作るには、あきらかに仕入れがいるからである。デザインで何かを作る。そのデザインをつくるにも、お金がかかる。今で言ったら、パソコンがいる。仕入れがいる。音楽をつくる。もちろん、色んな経費がかかる。ものに価値をもたせようとすると、仕入れがいる。仕入れたものを加工し、そこに、あらたな価値を生み出す。その利ざやが利益である。世の中には、その仕入れが、限りなく少ない人たちがいる。それは、自分自身が、商品である人たちである。タレントと呼ばれている人たちである。ある意味、芸能人という範疇の人たちであろう。物は、需要と供給のバランスの上で、価値が決まる。終戦後、食糧がないとき、お米に莫大な価値がついた。ダイヤモンドを持っていても、意味がないからである。しかし、飽食の時代では、ダイヤモンドの方に価値がでてきる。賞味期限が過ぎたお弁当には、一切の価値がないからである。
ふと、誰でもが、疑問におもう。では、その価値は誰が決めるのであろうか、テレビや車は、需要と供給の上である。そして、価格である。みんながほしいもので、安くて、いいものなら、間違いなく売れる。確かに、そこに芸があれば、そこに需要がある。戦後の美空ひばりさんや石原裕次郎さんである。闇市のなか、戦前のしがらみが消えて、その場を仕切る古いレジュームもつぶされ、ただ、不特定多数の困った人たちが、明日への希望を歌に、若さに託そうとした場がたったのである。知らずに、そこには、経済活動ができたのである。新たな闇市ができたはずである。しかし、今は、それが飽和している。毎年、新しい日替わりランチのように、芸能界に人がきて、そして、淘汰されて、忘れさられていく。入りと出は一緒、生き残れる人の総量はかわらない。景気が悪くなれば、一番外にいる人がはじき出される構図である。
あきらかに、タレントの価値とは、知名度が一番である。歌がうまい、芝居がうまいといっても、人の主観が入る。同じ芝居をしても、知名度のある人が行う人と、知名度のない人が同じ芝居をするにしても、差がある。もう、頭のいい人は、わかったはずである。そう、そこにあるのは、実態のない、共同の幻想体しかないのである。仕入れのない、芸能タレントという価値を仕切るたまねぎのようなものがあるだけである。あたかも、ゲームの場、別の言葉でいえば、株式市況、為替の市場らしきものがあるのである。実体があるわけではない、しかし、そのようなものがなければ、仕入れのない、人間と言う商品に相対的な価値など決めることなどできない。それが、出演料になるからである。一本、1000円の人もいれば、一本1000万のギャラをもらえる人もいるのである。その差は、あきらかに、知名度以外の何者でもない。企業がコマーシャルを選ぶのも、知名度や好感度や良いイメージをメインに選ぶのは当然だからである。
だから、そこのメンバーは、ものすごく、閉鎖的であり、義理人情に硬いはずである。ある意味の、その業界の不文律が厳然と存在している。それを守らなければ、排除される。そうして、素人がそこに入り込むためには、どこでも激しい雑巾掛けが必要になるはずである。売れてても、駄目である。雑巾掛けをある程度して、やっと認められる世界である。政治の世界とも、経済の世界の黒幕とも通じるかもしれない、しかし、目に見えない何かの集合体がなければ、仕入れのない人の価値など決まるわけがない。ラジオ番組をもらう。アナウンサーでないかぎり、放送局も営利団体である。大きなスポンサーが付かない限り、パーソナリティにギャラなど支払わない。逆である。お金をもらって、その枠をうっているのである。タレントにとっては、知名度をあげるチャンスでもある。そのタレントの価値があがれば、局に払うお金がなくなり、いずれ、今度は局から多少なりともお金がもらえることになる。知名度や商品に価値がないうちは、だれでもそうしているのである。そうして、いずれ、知名度やタレントの商品価値があがっていくのである。ある意味、芸能界の事務所は大変な投資をしているのである。しかし、仕入れはほとんどかからない。そこに、一攫千金を夢みる人たちの野心があるのである。
よく、私のところにも、テレビやラジオから、出演依頼がくる。もちろん、番組制作会社は、企業にその制作費を持ってもらいたいからである。だれも、知名度のない私に、ギャラなどくれない。払うのは私なのである。そして、PRをして、知名度をあげ、そうして、出演依頼がきて、初めて、私に価値がでて、お金をもらえるのである。知名度がないうちは、大抵、持ち出しである。ラジオ番組でも、テレビ番組でも、出してもらえるのである。出してもらえるのに、ラジオ局やテレビ局が、お金をしはらうわけなどない。当たり前の論理である。費用対効果があれば、お金を支払って、将来番組にでるかもしれない。
私は、夢を壊そうとは思わない。人間が複数あつまると、大抵は魑魅魍魎の集団となる。一人一人の思惑が重なり、ある集団となる。そこに馬鹿みたいな利権があると、歪な集団の不文律が存在することになる。たぶん、芸能界というのは、間口が狭いが、一度それをしると、ある程度、面倒がいい世界のような印象をもつ、なぜなら、そこで、がんばっているひとは、人情味があり、感性豊かな、優しい芸術家気質の人だからである。しかし、その裏には、フィクサーの集団がいる。その人を激怒させると、それで終わりである。
人生は、確かに50年かもしれない。人は、それ以降、急激にふけてくる。裕次郎さんも、ひばりさんも、あれが限界だったかもしれない。永遠の銀幕のスターでいられたのも、50年前後であの世に旅立ったせいかもしれない。確かに、スターは作られるものである。人にはさほど能力の差はない、スターを作るのは、ある意味、芸能事務所の事務所の社長の心である。いくらお金を突っ込めるかである。ある意味、パチンコ台に似ている。そして、一番気にしているのは、売り出した人が、自分をだまさないかである。色んな不文律が存在して、変なことができないことになっている。業界で、業界を守るようなシステムがある。きっと、いい人を売り出そうとするはずである。そう、そのいい人の要素は、自分を絶対に裏切らない人、そういう事務所の社長は、絶対に言葉は信じない。その言葉のうらにある心をみて、それで、その人が自分を裏切らないかどうかを見るからである。そうしなければ、人間と言う商品に、何億、何十億のお金など、つぎ込むことなどできないからである。
心の内面の動きは私の想像である。しかし、そう考えなければ、あきらかに、ロジックに矛盾がきたす。ほぼ、間違いはないと思う。ある面では、芸能事務所のトップは、心寂しい人だと想像する。
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