感を養い、災難から身を守るには、神様の論理が必要です。

 普通の人は病気になって、初めて健康のありがたさがわかる。しかし、世の中には、再発を繰り返し、そうして、命が減衰して、あの世に逝く人もいる。今まで元気で暮らして、ある日、病気になり、そして、命を散らすこともあれば、若いときの病が、突発的に再現し、そして、終わりになる人もいる。もちろん、病気になっても、完治し、そのまま、老衰して自然死を迎える人もいる。いずれにしても、ある程度、健やかに、生きれるのは平均的に75歳前後までで、それ以降は、何らかの疾患が生じ、だれでも、何らかの病を道連れにし、あの世まで行くことになる。

 

 我々は、なんとか、75歳前後まで、病気や怪我もなく、なっても、軽症であって完治でき、健やかに元気で、生きて見たいと思う。それが、人間として生まれた最大の幸せだと思う。たとえ、50-60歳まで権勢や富に恵まれて、栄華をほこっても、それで、ぽっくりと逝けば、それはそれでいいのだが、それでなんとか永らえても、健康に恵まれなければ、それが幸せかどうか良く分からないところである。人生は一回きりだから、自分がその立場に立たない限り分からないが、想像すれば、やはり、75歳までは、健やかに、自律的に自力で生きれるなら、生きて見たいと思う。それが、全員の本音だと思う。

 

 多くの病は、なぜそれがおきるのか、分からないことが多い。因果関係が分かれば、病気は抑えられる。結核は、結核菌でおきる。だから、それを殺す。因果関係がわかる。しかし、多くの疾患は複雑系である。原因がわからない。腎臓病がある。いろいろなタイプの疾患がある。ステロイド(副腎皮質ホルモン)療法がきく、微少変化型ネフローゼがある。再発率は高いが、ステロイドが効くタイプはほぼ確実に効く。そして、何故か腎機能には変化がない。正常なのである。しかし、そうではないものもある。だんだんと腎機能が低下し、透析が必要なものもある。病は非常に複雑である。白血病もそうである。効くものと効かないものもある。何故再発するのか、まったく分からないのである。

 

 世の中には、運がいい人がいる。何かが上から落ちてくる。何故か知らないが、それをよけるひとがいる。もちろん、避けられずに、そのまま頭に直撃して死亡するひとがいる。飛行機事故でも、列車事故でも、たまたま、その席にすわったために、死んだり、逆にたまたまその席に座ったために、かすり傷つかないひともいる。人は、それを結果から見て運がいいひと、運が悪い人だという。それで片付けてしまう。そう、それしかない。しかし、最近、私はどうも、そこに何かがあるようでしかたがないと感じている。

 

 だれも、なぜ、この世があるかなどわからない。この宇宙の先がどうなっているのかわからない。ビックバーンが何故おき、膨張する宇宙の向こう側はどうなっているのか分からない。自分の意識とは、なんなのか、自分に記憶がなくなれば、自分は自分をどうみているのか、過去の記憶がなければ、自分が生きているのか死んでいるのかさえもわからない。兄弟もわからない。時間もわからない。つまり、何も分からない。死んだ状態と同じことになるのである。

 

 それでも、自分らしき人間がいる。ばらばらに崩れなくても、有機的に結合し、命をつなげるものがある。それを支配しているものがある。自分ではなく、人間ではなく、それをつなぎとめているものがある。すくなくとも。この三次元空間以上の世界の中にそれがあることはわかる。なぜなら、三次元+時間軸の次元であれば、我々にもそれがわかるからである。それが、わからないのなら、それはそれ以上の次元からきていると考えるのが自然なのである。人の三次元+時間軸の頭で考えれば、それは神様の世界という。訳のわからないものだから、神様なのである。それを擬人化したのが、色々な宗教である。私には擬人化された特定された宗教の各論には興味がない。その共通した総論に対して興味をもつだけである。

 

 我々は、必ずその多次元とこの世の次元の交点に足を踏み入れる場合がある。もし、それが我々にとってよくない場所ならば、その神様の視点から見れば、そこが落とし穴になるはずである。しかし、我々にはそれが落とし穴にはみえない。いくら注意しても、病気になる。なぜならその落とし穴はこの世からは見えないものだからである。神様からの次元でないと分からないからである。助かった座席に座った人は、何故かそれを事故の日、選んだのである。この世の論理からみれば、ぐうぜんである。しかし、神様の論理からみれば、偶然とはいえない。なぜなら、それで助かったからである。

 

 75歳まで、すこやかに生きるには、すくなくとも、神様の論理に、自分を置くことが必要だとつくづく感じる。その感をやしなうことが必要だとおもう。それですべて助かるとは思わない。しかし、それで健やかに生きられる可能性がますのは確かだと思う。特定の宗教の論理でも、自分を捨てる場があれば、やしなえるはずである。でも、特定の宗教の論理は、あくまでも、この世の特定された方向性をもった論理である。この世の特定の方向性をもった宗教の論理は、この世での方便であり。現世利得をメインに考える。だから、この世の論理でなければ意味がない。それはそれなりの目的がある。だから、いろんな宗教団体が存在する。それはそれでいいことである。それはあくまでも個人の問題である。多くの宗教法人は、それなりの意義はあるのである。私の言っている神様の論理は、あの世の感を養う必要があると言う点である。この世では目に見えない落とし穴をあの世の感で、感じろというのである。病気は、いろんな条件が重なって起きる。何かの一つがオフセットされなければ、発病しない場合もあるからである。もちろん、だれだって、それが分かれば、それをしない。わからないから、原因不明な病気になってしまうのである。これから、ずっと論じていく。苦しんでいる人に何とか光を届けたいからである。

 

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このページは、中野満が2009年7月 3日 15:30に書いたブログ記事です。

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