改正臓器移植法(A案)可決、成立、人の命の尊厳とは

 やはり、日本の医療体制の現場からみれば、画期的な法案である。今までは、15歳未満からの臓器提供は、できなかった。これからは、年齢制限が撤廃され、本人の意思が確認されなくても、家族の同意があれば、提供ができることになる。そして、これは、判断基準が別れるし、人がそれを区別していいのかという疑問が永遠に残るが、脳死が、一律に人の死とこれからは認めたことになる。ある意味、大きな決断を今回したのである。「脳死は、死ではない。生きる形を代えただけ」、A案に疑問をもつ人の考えはそうである。今の科学水準で、脳の反応をみて、そこに、積極的な生を見つけることが、できなければ、死とみなす。もしかしたら、10年後、100年後、もっと、細部化され、100ナノの世界では、みえなかった情報が、10ナノの世界では、その情報がみえだすこともありうるからである。ないとしていたことが、あると言うこともあるのである。そうすると、死んだと判断したことが、一転して、生きているということになる。その情報を得たことから、何かしらの治療方針というのが、世の中得てして生まれることもある。菌とウイルスの違いも、大きさである。結核菌は、光学顕微鏡(ミクロン)でみることができる。しかし、ウイルスは、電子顕微鏡(ナノ)でなければ、分からない。今のインフルエンザは正しくウイルスである。それが特定されなければ、それに対するワクチンもできないことになる。過去に死んだと言う判断が、将来、死んでない、ただ、見つけられなかったということになるからである。だから、世の中にはいつの世でも、奇跡は存在する。眠り姫のように、突然、深い眠りから、目がされて、脳死から生還することもありうるからである。

 

 人は哀しいものである。二人のわが子のケースがある。臓器を移植しなければ、今の医療ではたすからない15歳未満の子供の場合、子供に適応させるには、子供の大きさの臓器が必要だからである。大人の臓器を埋め込むことなど、できない。かりに、適応する臓器があっても、それが、日本では出来ない。最先端の設備(医療機器技術でも、日本は最先端の技術をもっている国なのである。)をゆうし、最先端の臓器移植の外科手法をもっていながら、それが封印されていたのである。親は悲しい、わが子を何とか助けたいと思うのは、親として当然である。なぜなら、命をつなげようとするのが、生きることだからである。それで、助かるひともいる。しかし、光があれば影がある。「脳死状態の子供である。脳死は死ではない。生きる形を代えただけ。」この言葉も真理である。痛烈に胸をうつ。

 

 人の死は、感覚的には、温度である。私はそう思っている。人が、葬儀場で死者を葬れるのは、人ではなく、ものだからである。脳死状態で、あっても、体温があれば、そのまま、葬儀場で肉体を焼くことなどできない。ある意味、殺人になってしまう。人間として、命あるものと、命ないものとの、差は、温度、エネルギーだと私は思っている。だた、非常に、難しいのは、人は外部からエネルギーを貰って、何かをしなければ、生きることができない。車と同じである。だれかが、ガソリンを入れつづけなければ、いつかは、ガス欠で車は止まってしまう。脳死状態も、だれかが、生きるためのエネルギーを供給しなければ、心肺は停止し、冷たくなってしまうということである。

 私は、あの世があるとは、合理的には思っていない。しかし、あの世を前提としなければ、この世で生きていけない。この世で、命をつなぐことなど出来ないと思っている。心情的には、あの世があることを前提にして生きている。余談だが、私は宗教的な人間でもある。いかなる宗教の総論は是としているが、各論になると、各派は、それぞれの現世での利害対立を前面に押し出してしまう。宗教は、何故象徴的な教祖をもちながら、現世の生身の人間が教祖代行をつとめ、その人を崇めるのか、それは、その教祖が生きているからである。生きているから、共鳴を起こすことができるからである。それがカリスマである。カリスマの教祖があの世にいけば、その宗派は、よりエネルギーをもった人がでるまで、沈静化する。その波動の繰り返しが宗教である。したがって、地震のような発生周期性をもつのは当然である。人は、だれでも、自分の中に、ピュアーなあの世の心情感(心象風景)をもっている。そして、いつも、アンテナをはって、自分の感覚にあったものとの同調するのをどこかでまっている。それが、共鳴の始まりである。私もすこしそれを強く出そうと思う。

 

 世の中には、遺伝性の内臓疾患がある。原因が分からないなら、治療方法がない。時間と共に、機能が停止するだけである。腎臓であれば、透析がまっている。透析はやはり大変である。臓器を移植しても、永遠に免疫抑制剤を打ち続けなければならない。肝移植、心臓移植、大変な問題である。しかし、人の命である。この世で、助かる命であれば、助けてあげたい。しかし、この世で助からぬものであれば、あの世で、助けてあげたいとおもうのが、人としての思いやりだと考える。だから、あの世は、あらねばならぬと思っている。あの世がこの世と同じくらい、美しく乱れのないものであると、思わなければ、死者をあの世に送り出すことなど出来ない。それが、最低守らなければならない、人の命の尊厳の源だと考えている。

 

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このページは、中野満が2009年7月14日 08:19に書いたブログ記事です。

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