1945年8月6日(64回目、原爆の日)広島原子爆弾と音楽、どちらも、同じ波なのに。
1945年8月6日、午前8時15分、広島上空で、原子爆弾が炸裂し、10秒で、放射線、熱線、爆風(衝撃波)で、すべてが消し飛んだ。戦後、64年も経過しながら、いまだに後遺症で苦しんでいる人がいる。当時の国籍に関係なく、原子爆弾対人間という視点で、被爆で苦しむすべての人への救済を考えてほしいものである。
人間とは確かにふたつの顔をもっている。能ではないが、表面と裏面である。憎悪と愛情である。ある意味、恐ろしい生き物である。憎悪で人を殺せるし、愛情で、人を誕生させることもできる。好きで、一緒になる。相手は、自分とは違う自我をもつ、それを許容したつもりで、一緒になるのだが、その錯覚が、それぞれの許容値を超えてしまえれば、好きが嫌いになってしまう。ある意味、人間とは本当に身勝手なものである。そこに、利害が絡んでくれば、なおさらである。信頼と裏切り、それも愛憎の二面性である。個人対個人、法人対法人、国家対国家、宗教対宗教、民族対民族、人間の心の持ち方で、今日の敵が、明日の味方になり、その逆もある。
原子爆弾と音楽、まったく関係ないようにみえるが、どちらも、波に関連している。あまり、気にしていないかもしれないが、車のエンジンも基本的な考え方は、波動である。エンジンの往復運動を、クランクを通じて回転運動に変えているからである。波動、振動は、エネルギーと周波数との関係式である。時間軸に対しての周波数と振幅(エネルギー)の変化である。それが、非常に短い間に、膨大な量のエネルギーが無秩序に放出されれば、それが原子爆弾にもなり、それが、秩序的に、制御されながら、計画的に放出され、それを安全的に、使用できれば、それが、原子力発電にもなる。楽器も同じである。ギターも弦の振動である。人間が許容できる間に、その弦を無秩序に奏でたら、下手な素人であり、それを秩序よく、綺麗に、美しく響かせることができれば、プロの演奏家である。歌もいっしょである、無秩序に声を放出させれば、下手といわれ、美しく綺麗に声を共鳴させることができれば、プロと言われる。だから、エンジンがいい車は、乗り心地がいい、なぜなら、その車のスタッフのトップは、美しい音楽を奏でられる力があるからである。組織だった企業の経営者ほど、音楽に敏感なはずである。不協和音が組織を破壊することをしっているからである。
私は、長年、流体中の油滴(乳化)や固体(分散・粉砕)の微粒子化技術に従事している。そのエネルギーも、200Mpaや300Mpaといった、実用化レベルでは、最高レベルに近いものである。その圧力を用いて、処理物を細かくしている。世界的に見ても、ニートな分野である。(乳化や分散、粉砕の技術を製剤、化成といった製品を通して、高圧の装置技術として研究している機関(大学や公的機関)は、世界的にもほとんどないのが、実情である。)その過程の中で、色々な失敗を経験してきた。装置内に、力を応力としてかければ、硬い金属のシリンダーでも破断するし、乱せば、ダイヤモンドノズルも一気に割れてしまう。もちろん、うまく制御し、それなりに、応力を逃がすようにすれば、無駄のない、綺麗な処理物も簡単に取れる。今後、エコロジー技術が浸透すれば、私の死後になるかもしれないが、この考え方が世界的に普遍化する。そのとき、誰かが、その根底に流れているのは、何かと問いかけたならば、それは美しさへの共鳴と答えるにちがいない。
人は二面性をもつ、仏像でも阿修羅像もあれば観音菩薩像もある。この世もあの世も森羅万象にあるのは、エネルギーである。なぜ、それを根源とするかは、なぜエネルギーがあるのか、人間には分からないからである。しかし、それはある。だから、エネルギーがすべてというのである。それは、悪でも正義でもない。それがこの世で何かと作用するとき、人間が悪として、乱して作用させるか、正義として、制御をかけて作用させるか、ただ、それだけの違いが、結果として反映されるだけである。あの世も、エネルギーである。この世とは、そのエネルギーがこの世のものと作用し、振動している世界である。最終的に、人はあの世へといく、エネルギーの世界に還元される。心もそのエネルギーで昇華される。そのとき、人は、この世で、乱してエネルギーを使用していれば、心にも応力がかかり、ひずみやゆがみをもつことになる。クラックは、そこから生じている。心が割れて、憎悪がうまれるのは、そこに、応力がいつもかかるからである。そして、それが、いつしか、心の固有な振動数となり、それで、バランスをとるようになる。一度、悪を行えば、再度、同じことを繰り返す。そのひずみを修正しないからである。そして、破断して、人は破滅する。硬い金属がぴりぴりと割れるのと同じように、命もおわる。地獄の概念はそこから生まれたと感じる。悪いことをすれば、地獄に落ちるである。
原子爆弾もエネルギーである。音楽もエネルギーである。64年前の広島の御霊のエネルギーは昇華されず、きっとのこっている。永代供養もできずに、彷徨える御霊もあるはずである。何年先になるか、わからないが、多くの人が、民族や宗教の壁をこえて、8月6日に広島にあつまり、64年まえに使用されたエネルギーを天空にむかって、乱さず、美しく大きな声で、返してやれば、そこから、本当の意味で核廃絶、世界平和が生まれるような気がする。本日、2009年8月6日、午前8時15分、大阪から広島をみていたら、そんなことをふと感じた。
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