死後の世界について
今のところわかっているのは、人は死の瞬間から、どうしてだか分からないが、自分のDNAを切っていき、そうして、脳内麻薬をだし、安らかな死を迎えるようである。その後は、どうなっていくのか、定かではない。ただ、人の死を外部からみれば、石のようにつめたくなり、そのうち、酸化して腐敗していく。腐る前に、火葬を施すのが、今の葬儀である。
誰でも、死が怖いはずである。しかし、その死をおそれず、自ら死んでいく人もいる。私は、若いとき、長期間、入院していたことがあるので、そのときは、朝に戯れのない話をしていた人が、次の日には、いなくなっていたことがたびたびあった。人の命ほど、無常というものはないと感じたものだった。ある意味、最後の死を見届ける看護師ほど、辛い仕事はないと思う。感情移入してはいけないと思いながらも、感情が入るのが人間である。患者の死を面前にして立ちつくす医者や看護師の後ろ姿ほど哀しいものはなかった。
法華経を読むと、釈迦は、迹仏であり、本仏というものが、もともとあるというのが書かれている。もちろん、人類が誕生する前から、この宇宙は存在するのであるから、本仏というのも、人間の脳からみたその仏のイメージを仏教の論理で人が分かる言葉に直したものである。また、それを法華経の世界観からみれば、久遠の実相という言葉にもなる。私からすれば、森羅万象であり、(命の)エネルギーということになる。なぜ、命に括弧がつくかは、そのエネルギーと相互作用するから、何かが運動(回転、並進)し、そこから、命が生まれると想像するからである。
いくら、考えても、なぜ、エネルギーがあるのか、わからない。なぜ、この宇宙が存在しつづけるのかもわからない。この世の中は、分からないことだらけなのである。平面の中で生活している人が、その平面の裏側の空間を理解できないのと同じである。しかし、エネルギーは、あるのである。あるから、我々が、こうして命をつないで生きていられるのである。そうして、今、自分という自我があり、自分が何かを感じ、何かを考えているのである。我々の思考では、何かがあれば、その何かを生んだ何かがあると普通は考える。因果関係である。何故かわからないが、エネルギーがある。だから、それを生んだもの、それと因果を持つものがどこかにあると、考える。なぜあると考えるかは、考える自分がここに、存在していることが、それを証明しているからである。もっと、いえば。そのエネルギーを生じたものがある。また、それを生じたものがある。つまり、無限の因果が連続することになる。そうなれば、わからないというのが正解になる。
我々が期待するのは、自分の中にある記憶が永遠に保持されることである。しかし、それはない。記憶喪失や記憶が失われていく人をみれば、それがわかるはずである。死の瞬間、DNAを切っていくのは、ある意味、記憶を消していく作業と同じだからである。死んだら、どうなるのか、結局、何もかわらないはずであるし、何もわからないはずである。
毎日、我々は、寝る。たまたま、我々は、次の日に眼が覚めて、寝たときやそれまでの記憶を思い出す。そして、自分が自分を認識できて、はじめて、今、生きていると実感できる。もちろん、そうでない人もいる。睡眠中に、大地震がおき、そのまま帰らない人となることもあるし、心筋梗塞をおこし、そのまま、あの世にいくこともある。仕事をしていても、突然、意識が不明となり、そのまま帰らぬ人となることもある。傍からみれば、人の死はわかるが、自分にとって、自分の死など分かるわけがない。分かるというのは、自分が生きている証拠でもある。
死後の世界を色々と創造する人がいる。日本人が、昔から愛したのは、草木皆悉有仏性というイメージである。この自然の中の命をはぐくむものすべてに、霊がやどるというものである。霊とは、あるいみ、エネルギーである。東洋的には、気というエネルギーかもしれない。死後の霊、それが、自分をはぐくんだ故郷に帰るだろうという希望が我々にはある。それが、祖先の供養という考えになる。父、母、祖父、祖母、自分の命を生じたものすべてが、霊として、森羅万象にあるということになる。突き詰めれば、今の自分があるのは、地球がうまれたからである。その地球がうまれたのは、この宇宙があるからである。つまり、森羅万象のすべてが、霊としてあることになる。自分とは、そのエネルギーの一部であり、生まれる前もその一部、生まれたら、その中で、そのエネルギーをうまく自分で組織化して使い、そして、死んで、再び、そのエネルギーのなかに、吸収される。
それが、すべてであり、それ以上でもそれ以下でもない。人の一生は、それを悟るための過程だと考える。それがわかれば、じたばたする必要もない。あるがままに、あるがままを受け入れ、あるがままに、命を全うしていけばいいことになる。10歳で亡くなる人もいる。30歳で、50歳で、80歳で、100歳で、それは、それでそういうものである。
そう、じたばたするのが一番よくない。乱れたら、良くないのと同じである。昔、私は、海で溺れそうになった。急に、深いところにきて、足が立たなくなった。私は、慌てじたばたした。じたばたすればするほど、逆に海の中に引きずられそうだった。そのとき、ふときづいた。苦しくとも、息をとめた。体を浮かし、ゆっくりとバタ足で、岸の方へむかった。そうして、足が立つと頃へきたと思って、足をつけた。命拾いをしたと感じた。もし、慌てていたら、死んでいたはずである。
聖徳太子、最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮、それぞれの聖人が最後に感じた世界とは、異論はあると思うが、きっと、そのあるがままという境地であったと私は想像する。
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