あの世に帰るという意識

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 元、フォークルセダーズの加藤和彦さんが、軽井沢で自殺した。うつ病による自殺という報道が一部に流れた。62歳だそうである。死に急がなくてもいいものだと思うが、本人にとっては、この世で生きていなくない思いが強かったのだろう。嘗て、テレビ界を賑やかにしていた山城新伍さんも、死去した。再放送で昼間、2時間ドラマで刑事役で出演している元気な山城新伍さんを見るにつれ、つくづく、もののあわれを感じる。渦潮も台風も、最大の勢力を持つときが一瞬ある。極大値である。それまで、成長し、それから下降する。人間の一生もほぼ同じである。最近では、大原麗子さんも、飯島愛さんも、テレビから映る印象とは裏腹に、寂しい孤独死を迎えている。今、テレビで華々しく活動している人も、ところてんのように、つぎからつぎへと押し出されていく。昨今は、広告収入がへっているため、安価や売り出しの若手芸人を次から次へとテレビに出す。製作原価を抑えるためである。そして、一芸、半年の周期で、芸人やタレントは消えていく。サーフィンのように、いつも、大きな波の上にいられる人は、ごくまれである。逆に、いること自身、奇跡にちかいものがある。

 

 核家族化がすすみ、これまでの家という概念が崩壊した。少子高齢化で、後を継ぐ人もいない。仮に今回は、継げても、次は、継げる保証などない。祖先の墓の供養も、いつかは途切れる。地球温暖化ではないが、後30億年後には、かならず、この地球は太陽にのみこまれて、なくなってしまう。それ以前に、太陽の膨張により、地球の気温はあがり、水は干上がり、生物は枯渇する。時間はかならず、流れているため、その日は、気の遠くなる時間だが、やってくる。なぜなら、この宇宙がうまれてから、今、すでに150億年が経過しているからである。したがって、それは必ずやってくる。それは、ひとりひとりの命が死というものを内在するのとおなじように、避けられぬものである。

 

 だから、我々が観察する物理現象から想像するこの世の末路は、寂しく憂鬱なものである。だから、そう考えれば、必然的に、虚無的になることは避けられない。視点が、この世に、固執している限り、現世利得で得たものを、永久に保持したいと誰もが考える。そう思い込ませてくれるものに、だれもが心引かれる。人をだまして富を築いた人も、結局は、この世に残った人にだまされ、富を失う。永代供養など、本気で信じている人などいない。死後の憂いをこの世で晴らす、単なる気休めでしかない。それは、この世が表であり、あの世(生まれる前と死んだ後)が裏だと考えるからである。それが、逆だと、考えれば、あの世からやってきて、この世でがんばって、あの世へ帰るという意識にならざるを得ない。この世で生を受ける確率は、奇跡に近い。そして、自分という自我をもち、自分を組織化し、自己が成長していく過程の間で人は自分の記憶をもつことになる。こんな素晴らしいことは、ないはずである。生まれる前も死んだ後も、記憶などない。つまり、自分などないのと同じである。恐ろしいことだが、それを受けとめられなければ、老後など、恐ろしくて生きていけないし、親族を残して死ぬことなどできない。どんな宗教の、どんな宗派の洗脳をうけても、かならず、その矛盾が心をよぎる。いくら、それを否定し、自分が信じようとした宗派の論理を繰り返し読み返して、自己洗脳や自己催眠をかけても、その矛盾は、どこかに残るはずである。それが、どうしても心のひずみやゆがみとして、現れる。

 

 

 あの世にかえる。地球が太陽にのみこまれようと、宇宙がどうなろうと、エネルギーは存在している。あの世とは、そのエネルギーの場である。我々は、この森羅万象の一部である。我々は森羅万象ではないが、森羅万象は、我々が体験する現象を含むはずである。私はエネルギー保存の法則を信じている。それを否定する事実をみたことがない。なら、あの世もエネルギー保存の法則が守られていると考えたほうが楽である。私が死ねば、自分で自分のDNAをきって、私はばらばらになる。そして、この森羅万象のエネルギーの場に分散というよりも拡散していくことになる。そのときは、もう、わたしではない、私を構成していたものが、均一にこのエネルギーの場にゆらぎながら拡散して消えていくことになるだけである。輪廻転生というのは、それが再構築されて、再び命を持つことである。ロジック的には、それは正しいことである。そして、エネルギー保存側から、私を構成したものが、確率的には非常に少ないが、多く集まって、再構築されても論理はあう。しかし、私の記憶やその前の記憶が刷り込まれているかどうかはわからない。世の中は、わからないことだらけであるから、それがあっても、おかしくはない。あの世にかえるのであるから、あの世のロジックに支配されることになる。

 

 あせることもなく、あわてることもなく、ただ、あるがままに、がんばって、あるがままを受け入れ、そして、自分が自分で保持できなくなるまで、がんばればいい。自分が自分を保持できないとは、自分の中にある記憶が連続して関連性をもって保持できなくなることである。そうであれば、死とは恐ろしいものでなく、父や母や祖母や祖父や自分よりも先に逝った友や妻子が拡散した状態の場へ私も帰るということになる。あの世にいくのではなく、あの世へ帰る、戻るという意識が正解なのである。

 

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このページは、中野満が2009年10月20日 10:09に書いたブログ記事です。

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