念力と呪詛
念力や呪詛など、必殺仕事人の世界だと思っていた。晴らせぬ恨みを晴らしてくれる裏の家業の世界など、作家の絵空事だと考えていた。自分を裏切り、自分を陥れた人に対する怨念をこの世で晴らすために、わら人形や丑の刻参りなどの呪術など、陰陽道や妖術の一つのパフォーマンスだと考えていた。ある意味、呪いの力、念力で、人の運命など、変えることなどできるなどと、想定はしてなかった。しかし、世の中、確かに不思議なことがおこるものだと最近思ってきた。念力や呪詛も、過去から現在まで語り継がれ、ある意味、実践されてきた。普通の人は、死をおそれる。それと同じような感覚で、呪詛やのろいも恐れる。その心理は、やはり自我があるからである。自分が自分であり続けたいという我執があるからである。そのために、その我執の存在を否定されるほど、恐ろしいものはない。自分が幻想なら、己の死も幻想であり、己の生も幻想である。そうなれば、呪詛も呪いもまた幻想ということになる。しかし、自分の存在を誰も幻想とは思わない。利己的な現世利得、自分が相対的に裕福であることをただ願う。だから、そういう人ほど、一神的に、何かにすがる。贖罪を求めて懺悔する。
ネットで、呪詛を検索すると、あなたの恨みをはらしますというわけの分からないものが出てくる。丑の刻参りで、呪詛をかけても、たぶん、何も生まれない。相手が、自分の心の中に一点の曇りもなく、明鏡止水の心境で、真実一路で生きていたら、呪詛もなにもない。逆に、利得で呪詛を掛けた因果が己にかえり、掛けようとした人自身が、その呪詛にかかって身を滅ぼすことになる。呪詛にかかるように見えるのは、掛けた相手に、それなりの因果を受ける記憶やそれに対する罪悪感がある場合である。たとえば、子供のとき、誰でも、蟻を踏み潰した経験をもつはずである。昆虫を殺した経験をもつはずである。今でも、ハエや蚊がいれば、殺すことに誰もためらいは持たない。子供のときは、罪悪感も感じなければ、その記憶も遠くに隠されているから、それに対して、どうのこうのがないのである。しかし、それは、悪いこととだと洗脳していけば、だれでも、その虫のたたりと恐れおののく。そして、自縄自縛に係り、自分で自分の免疫機能を乱し、自分を自分で滅ぼすはずである。それが、呪詛である。相手に罪悪感があること、それを増幅させて、相手の心のなかで、成長させれば、人は自爆する。心因性、自因性で、人は自分の呪いにまけて、乱れて消えるのである。
確かに、自分の我欲でこの世をみれば、すべては確率論的にゆらいで重なっているものが、一つに収縮されていると感じる。だから、一つの世界しかみえない。因果律だけが見える。いくら考えても、その因果律の枠の中でしか物事を見て取れない。念力や呪詛など、あるわけが無いと思う気持ち、それ自身がそれらを否定する。何故否定するか、否定しなければ、自分の我欲も否定しなければならないからである。我欲の反対は、無我である。無我を意識した瞬間に、無我ではなく、有我になる。有我が生まれれば、一つしかみえない。そこに、何かしらの無限に近い波動の曲線群があっても、自分という我執があるため、たくさんある目に見えないものの中で、その我執にあったもの一つが、その人の面前に出現することになる。見えないけど、なにかは存在してゆらいでいる。それを霊と呼べば、無限に近い霊が自分の周りを縦横無尽にゆらいでうごめいている。普通は、そんなことを言っても、相手にされない。無視されるだけである。そういう人が本当にそれに耳を傾けるのは、体力が落ちたときである。我執を支えるだけのものが、失いかけたときである。最後までタバコを吸おうと思っている人が、たばこを吸えなくなったときが、あの世へと帰るときだと考えたほうがいい。そのとき、そうだったのかと分かると思いたい。
32年ぶりに微小変化型ネフローゼに罹った。そのとき、腎臓に石があるのを確認した。昨日、突然、その石が、落ちてきて、尿管に引っかかった。昨日の夜、激しい痛みを感じた。これも18年ぶりの痛みであった。あまりにきつかったから、自分の手でそのところをさすってみた。5分ぐらいしたら、痛みがすっと消えてしまった。尿管結石だと感じた。病院にいって、レントゲンでみたら、腎臓にあった6mmの石が尿管に引っかかっていた。頓服の薬をもらったが、たぶん、飲むほどの痛みは来ないと感じている。来週に、再度検査をするが、その病院には、最新式の超音波の結石を破砕する機器があるので、それをおこなうことになるだろうと感じている。18年前もそうだったからである。
世の中には不可思議なことが起きている。普通はそれに気づかない。我執の塊どおしがぶつかり、何かしらの作用を及ぼせば、そこに、怨恨が生まれる場合がある。利己的な視点で、自分に都合のいいようにその作用をみれば、相手がわるいということになる。ある意味、誤解が生まれ、憎しみが生まれる。いくら美辞麗句を並べ立てても、一度発生した疑義は、我執の中に取り込まれる。打ち消してもそれは自分の内部に残っている。我執をすてなければ、その疑義は、消えない。すべては、己以外には、何もない。外界と己の界面を形成するのが、我執だからである。我執があるから、生きているのである。我執を無我にすることなど普通はできない。静の中の動、動の中の静、死の中の生、生の中の死、矛盾するものを一体化させることなど、普通はできない。考えないことを考えるなど出来るわけがない。だから、呪詛などないと普通は考える。たしかに、私も、32年ぶりの微小変化型ネフローゼにかかり、ステロイドを飲むまでは、そう思っていた。しかし、薬の副作用かもしれないが、その我執がステロイドの自己免疫力低下の作用で、薄れている。その有我と無我のスイッチングのコツが、だんだんとこの歳で分かってきたのである。無我で、あるがままの事象をただ観じていると、呪詛で乱れて崩れていく我執の渦の強さが見えてくるのである。強い渦潮や竜巻のように、自分の命のエネルギーで渦の流速をあげて、自らを消し去っていく感覚が見えるのである。たとえ、老化曲線にのっても、人は90歳や100歳まで、生きれるはずである。乱れなければ、大丈夫のはずである。しかし、たぶん、その言葉は理解されない。なぜなら、有我の状態では、それが見えないからである。頭で理解できても、どうしたらいいか分からないからである。あるがまま、あるがまま、それを繰り返し自分に言い聞かせるしか方法論がないはずである。私はそう感じる。
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