左脳で現実を考え、右脳であの世を夢に見ている。

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 自分は、どのように、この世を去るだろうかと、時々考える。今日も、定期的な検診で、病院にいった。プレドニン(副腎皮質ホルモン剤)も、減らされた。微小変化型ネフローゼで退院して、約四ヶ月弱、退院時から比べると一日のプレドニンの量が半分になった。指数曲線的に、ゆっくりと減らしていく予定と、担当の綺麗な女医さんは、言っていた。そうか、と思った。

 

 やはり、病院は、辛いところである。毎日、生き死にの連続である。生まれてくる人もあれば、死んでいく人もいる。病人を付き添ってくる家族の人も、落ち込んでいる。明るく笑っている人は、あまりいない。しかたがない。明るく笑っていられる人なら、きっと、病院など来ないのだから。病院から会社にいってメールを開いたら、若者から、メールが届いていた。どうして、私のメールアドレスが分かったのか、不思議だったが、二年前に書いたあるブログの一節に、それがかかれてあることを、弊社のHPの管理者から、言われた。なるほどと思った。そんな古いブログでも、読んでくれる人がいるのかと、率直に思った。

 

 同じ病気だと書いてあった。22歳の大学生と書いてあった。再発するのが怖いと書いてあった。たぶん、多情多感で、さらに、ステロイドが投与されていれば、病的な感受性の波に襲われるはずである。経済が、右肩上がりであり、若者が、未来に自分の夢を託すことができる時代なら、未来を憂い、不安になることもないだろうが、こんな時代である。自分を支えきれなくなるだろう。容易に想像は付く。がんばりなさいとしかいいようがない。どんな嵐でも、必ず、収まる。大地震が起きても、必ず収縮する。乱れて、激しい心の振動をうけても、時がくれば必ず減衰していく。若さがいずれ失われるように、どんな激しい波動でも、時間とともに、減衰する。外部から、心を乱すエネルギーが供給されなければ、必ず静まる。それが、人生であり、それが、この世もあの世も含めた森羅万象の定めである。なぜ、そうなっているのか、何回も書くが、それは分からない。だから、生まれる前も、死んだ後も、分からないのである。そう、心配はいらない。心配する必要もない。焦る必要もない。ゆっくりと、時間が過ぎていく感覚を味わえばいい。難しいかもしれない。しかし、人生は長い。100歳まで、生きたらいい。それからみれば、今の時間は、一点の粒でしかない。

 

 きっと、左脳で、現実を見ている。近過去と現在と近未来の因果律が見える世界を左脳でみている。だから、言葉が支配する。ロジックが支配する。意識が支配する。つまり、この世の実数的な世界である。それから遠くにある世界、遠い過去、遠い未来、それは、この世の裏側の世界、イメージの世界、無意識の世界、非論理的な世界、ある意味、虚数的な世界である。それが、生まれる前の世界であり、死んだ後の世界である。あの世かもしれない。左脳と右脳はつながって、相互補完している。だから、左脳で現実を考え、右脳であの世を夢みている。自分がどのようにして死んでいくのだろうか、それを思うようになった。妻の母が数週間前になくなった。その死顔をみた。世話になった人だから、自分にとっては、重要な人であった。しかし、なくなってみれば、そんなものか、なのである。しかし、その義母がどこかで見ている感覚は自分にはある。右脳の中で、そのゆるやかなイメージは存在しつづけている。そう、自分も必ずいつかそうなる。それがいつくるか、そのとき、何をおもうだろうか、それを想像してみた。飯島愛さんもなくなった。大原麗子さんもなくなった。著名な人も、ネットで調べたら、あの人もすでになくなっているのか、そう思った。人は、すっとこの世から消えていく。そうして、あの世へと拡散していく。

 病院で思った。あの世とつながっている人は、きっと、100歳までいきる。右脳が活発だから、左脳が支えられる。きっと、この世でいきる気力をなくせば、人間は生きることを停止する。生きる気力は、この世にはない。それは、遠過去や遠未来からのエネルギーが右脳に注ぎ込まれなければ、人はこの世でかれてしまう。病院で見た多くの人は、数年以内に、この世から去っていく。生きる気力が感じられないからである。背中をまるめたら、だめである。下を向いたらだめである。私には、気というエネルギーの実体がわからないが、なにか、遠過去や遠未来から、それは、きっと、球のような連続したところから、波動のようなものが流れているような気がする。私には、感覚的に理解しているものがある。それは、この世もあの世もふくめ、すべてにはエネルギーがあるということである。久遠の実相、それはエネルギーのはずである。浄土の本質もエネルギーのはずである。そう、植物が太陽光線を受けなければかれていくように、病院で死を予見できる人には、そのエネルギーが消えているのである。私にはそう見える。因果関係がはっきりしている病気は除き、原因不明なものは、私は心因性がほとんどだと感じている。だから、ガンも、治る人のパターンと治らないバターンが分かれている。治せるのは、本人の気力である。同じ薬、同じ医療、すべてが同じであっても、気力が異なれば、答えは違うはずである。

 

 禅とはなにか、それは、左脳で考える近過去から近未来の因果律を断ち切ることである。右脳で、あの世をみるのである。自分の遠い過去を思い出し、宇宙の流れを感じるのである。昨日も書いた。だから、右脳を刺激するには、ギターをやるのが一番費用対効果のある方法論だと思う。これを書いているとき、Dm7のコードをならした。哀しいコードの響きである。そして、知らずにE7、そして、Amと鳴らした。あの世から、いいメロディーが流れてきたような気がした。

 

 

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このページは、中野満が2009年11月30日 22:29に書いたブログ記事です。

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