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 来年の坂本竜馬の竜馬伝に代表されるような、徳川慶喜の大政奉還、江戸幕府の崩壊、そして、アメリカが広島に原子爆弾を炸裂した後の、大本営が国体維持へと動き出した後の大日本帝国の崩壊、当然、私はその場にいたわけではないので、分からないが、今の状態はそれと酷似しているような感じである。721日に、麻生総理は、衆議院を解散するといっている。予告解散も聞いたことはないが、要件を満たしていれば問題はない。解散は実行されるだろ。そして、余談だが、722日は、46年ぶりの皆既日食である。晴れてくれればいいが、こればっかりはどうしようもない。ただ、皆既日食は、日本では、奄美諸島の地域なので、本土では部分日食しかみられない。46年前、1963721日の早朝に北海道の網走で皆既日食がおきている。もちろん、太陽と月が完全に一致するのが、皆既日食で、部分日食は日本でも十年に数回は見ることが出来る。小学校のころ、下敷きをかざして、太陽がかけるのを見たことがあるが、肉眼では何の変化も感じられなかった。実際はそんなものである。話題がずれたが、歴史が変わるときも以外と事はたんたんとすすむものなのかと、ふと思った。

 

 確かに、少子高齢化、晩婚化、男女雇用均一化、アナログとデジタルの境の世代が、アラフォー世代である。35歳から45歳、中心は、40歳である。その次の50代世代は、末路は、厳しいかもしれないが、一生を考えれば、こんなものかと割り切れるし、60代であれば、まさに団塊の世代であり、70代であれば、戦中を経験している。当然に、今働き盛りで、お金が必要で、社会の下支えをしてもらわなければならない世代がアラフォーである。実は、今度の衆議院選挙で、一番影響を受ける人たちが、このアラフォー世代なのである。人事のように、無関心で、選挙を放棄したり、適当に、人付き合いで、あそこの党に入れといてと言われて入れたりしたら、それは後で自分に帰ってくると考えたらいい。それほど影響をもつものだと直感する。

 

 少子高齢化、日本の経済も、右肩上がりではない。晩婚化のリミットも、アラフォー世代の前半までである。確かに、滑り込んで、一時の充実感は味わえるかもしれない。しかし、現実は、そう甘いものではないように感じる。高度成長の中で育ってきたため、ある程度の豊かさになれている。豊かさが当たり前であるとさえ、錯覚している。地球と言う資源が一定、日本は、少子高齢化であるが、世界の人口は増加している。温暖化の影響も出ている。情報が均質化されている、そう、一人当たりの地球にある資源(資産)分配は、年々減ってきている。中国やインドが豊かになれば、相対的に、日本は貧しくなる。なぜなら、全体が一定だからである。小学校の生徒でもわかる。日本が2をとっている。中国が1だった、のこりの国は、7だった。全体は10のままで、残りの国は7、で中国が2とったら、日本は、いくつ取れますかという小学校2年の算数と同じである。答は1である。これから、減ってくる。少子高齢化というのは、生産性の人口がより減るわけだから、より、少なくなる。十年後、日本が一番豊かな時代は、いつだったという質問がでてくるかもしれない、きっと、小泉構造改革の中で、アメリカの市場経済主義のトレンディの中で、ヒルズを闊歩していた時代が一番いい時代だったということになるかもしれない。

 

 ネットで、滋賀県立成人病センターで行ったアンケートの結果をみた。とても人事ではないという数字が現れている。「ベテランの看護師さんの離職が病院の全体の質の低下と非効率な看護業務の見直しの改善が急務」と結果を締めくくっている。病院にいけば、そこには、医師と看護師さんがいる。入院すれば、24時間の看護体制がある。患者はそれを当たり前とみる。病気で入っているのであるから、甘えもある。患者は、看護師(看護婦さん)の心の裏側など、誰も考えない。ある意味、当たり前である。一番、考えるのは、自分の体であり、考慮すべきは、いかに、健康を回復し、社会復帰するかである。医師も看護婦もそれをサポートするのが、彼ら、彼女たちの仕事であると考える。

 

 この調査は、実に面白い試みをしていると感心している。平均的な日本人労働者の仕事ストレスを1.0とした場合の各職種ごとのストレス具合を数値化させ、比較させているのである。それにどのくらいの妥当性があるかどうかはわからないが、直感的にはあたっていると感じる。看護師が1.55、看護助手1.41、薬剤師、1.28、医師は1.09.事務職は0.89、昇進して、責任者の立場にたつ36歳以上の看護師のストレス指数が、1.70と跳ね上がるのは、相当なストレスとプレッシャーが彼女たちに襲い掛かっていると判断できる。

 

 これは、あくまで、客観的な業務での指数であり、そこに、心理的なプレッシャー、数値化では定量できない、人間としての心の指標が加わっていない。少子高齢化、最終的に、社会の矛盾、人間の矛盾、世の中の矛盾は、人の死の前後に現れる。ある意味、これからは、どのような死に方を迎えられるかが、一つの幸福感になるはずである。それが、少子高齢化の人間の避けては通れない運命であるように感じる。だから、私も逃げないで論じることにする。

 

 誰でも、病気などなりたくない。しかし、人間には老化曲線がある。永遠に生きることは出来ず、どこかで、命を停止する。社会が、核家族化になり、格差の分布がある程度の広がりをもつ社会になっている。人々は地域に根付くことなく、開発、開発で、村や町を追われ、故郷を捨てた。現代の資本主義体制のもと、転勤で、ところ払いが当たり前になっている。自民党政権が崩壊するのは、それが、過飽和して、その今まで目をつぶってきた問題が一気に噴出してきたからである。温暖化もそうであるし、地域医療、地域ネットワーク、コミュニティ、過去何百年受け継がれてきた文化が根こそぎひっくりかえったのである。時間は不可逆性なので、昔にはもどらない。だから、人間として、どうしても守らなければならない、命の尊厳を誰かが拾ってあげなくてはならないことになる。そう、今の核家族化の世代である。市町村も予算がない。身寄りがいればいい、しかし、これからは、老人が寄り高齢の老人を介護する時代がくる。蟻とキリギリスではないが、若いときに甘い汁をすっていたつけが、最後にやってくる。それは日本全体の問題になってきている。

 やはり、日本の医療体制の現場からみれば、画期的な法案である。今までは、15歳未満からの臓器提供は、できなかった。これからは、年齢制限が撤廃され、本人の意思が確認されなくても、家族の同意があれば、提供ができることになる。そして、これは、判断基準が別れるし、人がそれを区別していいのかという疑問が永遠に残るが、脳死が、一律に人の死とこれからは認めたことになる。ある意味、大きな決断を今回したのである。「脳死は、死ではない。生きる形を代えただけ」、A案に疑問をもつ人の考えはそうである。今の科学水準で、脳の反応をみて、そこに、積極的な生を見つけることが、できなければ、死とみなす。もしかしたら、10年後、100年後、もっと、細部化され、100ナノの世界では、みえなかった情報が、10ナノの世界では、その情報がみえだすこともありうるからである。ないとしていたことが、あると言うこともあるのである。そうすると、死んだと判断したことが、一転して、生きているということになる。その情報を得たことから、何かしらの治療方針というのが、世の中得てして生まれることもある。菌とウイルスの違いも、大きさである。結核菌は、光学顕微鏡(ミクロン)でみることができる。しかし、ウイルスは、電子顕微鏡(ナノ)でなければ、分からない。今のインフルエンザは正しくウイルスである。それが特定されなければ、それに対するワクチンもできないことになる。過去に死んだと言う判断が、将来、死んでない、ただ、見つけられなかったということになるからである。だから、世の中にはいつの世でも、奇跡は存在する。眠り姫のように、突然、深い眠りから、目がされて、脳死から生還することもありうるからである。

 

 人は哀しいものである。二人のわが子のケースがある。臓器を移植しなければ、今の医療ではたすからない15歳未満の子供の場合、子供に適応させるには、子供の大きさの臓器が必要だからである。大人の臓器を埋め込むことなど、できない。かりに、適応する臓器があっても、それが、日本では出来ない。最先端の設備(医療機器技術でも、日本は最先端の技術をもっている国なのである。)をゆうし、最先端の臓器移植の外科手法をもっていながら、それが封印されていたのである。親は悲しい、わが子を何とか助けたいと思うのは、親として当然である。なぜなら、命をつなげようとするのが、生きることだからである。それで、助かるひともいる。しかし、光があれば影がある。「脳死状態の子供である。脳死は死ではない。生きる形を代えただけ。」この言葉も真理である。痛烈に胸をうつ。

 

 人の死は、感覚的には、温度である。私はそう思っている。人が、葬儀場で死者を葬れるのは、人ではなく、ものだからである。脳死状態で、あっても、体温があれば、そのまま、葬儀場で肉体を焼くことなどできない。ある意味、殺人になってしまう。人間として、命あるものと、命ないものとの、差は、温度、エネルギーだと私は思っている。だた、非常に、難しいのは、人は外部からエネルギーを貰って、何かをしなければ、生きることができない。車と同じである。だれかが、ガソリンを入れつづけなければ、いつかは、ガス欠で車は止まってしまう。脳死状態も、だれかが、生きるためのエネルギーを供給しなければ、心肺は停止し、冷たくなってしまうということである。

 76日の夜、パチンコ店放火殺人事件の犯人、高見素直容疑者(41歳)が、山口県警の岩国署に出頭してきた。「誰でもいいから人を殺したいと思い、人が多数いるところに火をつけた」と容疑を認めているそうである。自首してきたのである。放火した後、犯人は、西へ西へ、岡山、広島、そして、岩国まで、逃げて、そうして、逃げ切れないと思い出頭してきたのである。

 

 ある意味、一番単純な動機であり、ある意味、一番、許せない動機でもある。経済的に追いこめられていたこと、その重圧感、孤独感、特に、誰れ、かれに、恨みつらみがあったわけではなかったから、この犯人は、ある面、ほっとして、警察の前で心情を露呈したはずである。警察官も、面識があるわけではないので、肩を叩いて、相手が自分の殻にこもらないように、うまく調子を合わせながら、調書を作成していることだろう。

 

 報道によると、高見容疑者は、「複数の消費者金融から借金があった。仕事も金もなく、人生に嫌気がさして、通り魔みたいに人を殺したいと思った」といっているそうである。人間の弱さをつついた、なるべくしてなった事件である。サラ金、パチンコ、不況、派遣切り、格差社会、個人主義、単価主義、福祉切り、それらのキーワードをつないで、今回のパチンコ店の放火殺人を連想すれば、ここまできたかという印象はいなめない。もちろん、そうであっても、普通の人はそんなことは絶対にしないし、許されることではない、だから、自首したとしても、最終的には、死刑を求刑されるはずである。

 

 サラ金の金の出所は、昨年末までのバブル資金である。サラ金も、確率論で、いくら貸し付けたら、いくらの焦げ付き、その貸付量、貸し付けた人の状態をチェックしている。なぜ、多重債務をしている人にも金を貸すのか、貸し付けたほうが、それでも返済される率がいいからである。個別の事情などない、確率で、貸し付けたほうが、全体的にいいか悪いか、よければ、多重債務だろうが関係ない、それが、アメリカ流金融理論のやり方である。日本のマンダ流とは違うのである。だから、この高見容疑者は、借りるのである。そして、仕事がない、むしゃくしゃする。ばちんこで、一攫千金と考える。これも、デジタル博打である。突っ込めば、ある程度は出てくる。これも確率論である。資金が多いほど、回収率もいい、しかし、どんなものでもリスクはある。そのリスクをカバーできるぐらいの資金が必要なのである。

 

 メタボと一緒、禁煙といっしょである。規制がなく、無尽蔵に供給されたら、だれだって、自制など困難になる。おいしいものがあれば、食べる。愛煙家もそこが自由にすえる場所ならぷかぷか吸う。それと同じである。人間の弱さに漬け込むのが、市場原理である。原則は自己責任である。自制でき、コントロールできる人は、うまくいく。しかし、たいていの人は、コントロールなどできない、暴飲暴食、メタボになり、糖尿病になり、腎炎になり、ガンになり、リュウマチになる。規制がかからなければ、慣性が働き、そのまま崩壊の道へ行く。管理するよりも、好きな酒を飲んで、好きなものをたらふく食べて、働かないで、好きなときに寝て、だらだらと生きたほうがらくだからである。それが、エントロピー増大の法則だからである。

 

 サラ金から多重に債務がなければ、この高見容疑者は、泥棒を働いたかもしれない。しかし、パチンコ店を放火し、無差別に人を殺すようなばかな真似はしなかったかもしれない。何かの形で、社会に規制があれば、この男にも抵抗がかかり、ばかな真似はしなかったかもしれない。規制があるから、禁煙がすすむ。少なくとも、大手の病院は全館禁煙である。新幹線も飛行機もである。これから、少子高齢化、ワークシェアーもすすむ。情報のネットワーク化で、世界の均質化がすすむ。格差は解消されてくる。資本主義の金銭や物品の上下、高低差で生じた金融、為替の利潤も段々と減ってくる。規制が入るからである。すこしづつ、世界は日本の江戸時代化へとすすむ。加速度を下げて、ゆっくりとエコをかけて、生きる世界を求めるはずである。それなくしては、地球温暖化はとまらない。それなくしては、1000年後。2000年後の未来など地球にはないはずである。

 世にも、恐ろしい事件が起きたものである。確定した情報ではないが、どうやら、75日の日曜日、午後415分ごろ、突然、男がパチンコ店に入ってきて、もっていたガソリンをばら撒き、それに、火をつけて逃走したようである。それによって、4人が死亡し、数十人の人が重軽傷を負った。重傷患者の中から、今後、死亡者が出ないとは限らない。

 

 此花区の四貫島のこのパチンコ店に、今は行くことはないが、私は十年ぐらい前は良く通っていた。地元の人は、元のパチンコ店の名前の方が、なじみ深いはずである。テレビから映し出された現場の光景をみれば、なじみの店であれば、誰でもが、あそこだと分かるものである。だから、大阪の四貫島の人たちが、どのような気持ちで、パチンコを楽しんでいるのかも分かる。そして、数十年前だが、大阪のおばちゃんたちから、良く玉が出ていれば、大抵、男は「にいちゃん」、女は「ねいちゃん」で呼ばれるが、「にいちゃん、景気いいね」と初対面の人にでも平気で声を掛けてくる、四貫島とはそんな土地柄なのである。もちろん、出ていなければ、「にいちゃん、この台は、でないから、やめとき」といってくれるのである。最初は、なじめないが、だんだんとその雰囲気に、融和されていくものである。ある意味、それが、大阪の面白いところでもある。もう、十年以上も前であるが、いまでも、その気質は残っているはずである。

 

 死亡した人の年齢を見れば、伝法、春日出、梅香、と地元の年配の方々である。それなりに楽しんでいたはずである。そして、死亡した最後の人をみて、やりきれない思いがした。派遣として店で働いていた、20歳のお嬢さんである。そして、私がはっとしたのは、その人の名前だった。麻衣さん、なのである。もちろん、麻衣さんといえば、有名な歌手の倉木麻衣さんを思い出す。そして、もうひとり、私の記憶に在るのは、ブログで書いたので、記憶にのこっているが、故倉本舞衣さん、音でいえば、やはり「まい」さんなのである。犯人は、30歳前後の細身の男性、バケツにガソリンを持って入って、ばら撒いて火をつけている。犯人が捕まっていない以上、犯行目的や動機が特定されない、非常に陰鬱な感じがする。いずれにしても、防犯カメラが設置されている。地元に住んでいれば、犯人は特定される。このパチンコ店に恨みを持つものであれば、地元の人である。そして、パチンコという賭博性に腹が立ったのであっても、やはり地元の人である。近隣の人であれば、いずれ、足がつく。時間の問題である。

 

 いずれにしても、この四貫島近辺はおおらかな土地柄である。昔は、鍵などかけることはなく、近所通しが、勝手に家に入ってきて、くっちゃべって、そして、一日が終わるそんな町であった。銭湯があり、色々と下世話な話をする。それが、大阪のおばちゃんの根幹にある。家に囲いがなく、道がそく、入り口である。どこどこのだれだれちゃんが、どうした、こうした、一つの情報が、一気に伝播される町である。とくに、此花、四貫島、伝法、梅香、などは、その中心的な地域でもあった。そう、今はユニバーサルスタジオができたが、その前は、戦後を支えてきた大手企業がどんと存在し、町の経済を支えていたところでもあった。

 

 なんとも、悲しい事件が起きたものかと思う。報道によると、「約束ごとを守らないので腹が立った」とその動機を供述したという。もちろん、心の真偽は分からない。報道によると、二人は期末試験のため、登校する途中だった。ホームセンターで購入した包丁をもって、浜田君が降りたところを刺した。決行したのであるから、殺す目的で、今日という日を選んだ。刃渡り16cmの包丁だそうである。ふたりは、高校の同級生のクラスメート、同じ制服を着て、期末試験を受けに来た。犯人は、「約束ごとを守らないので腹が立ったから刺した」という。殺された浜田知哉さんは、きっと、寝耳に水状態だったはずである。自分が、同級生に殺されることなど、まったく頭になかったはずである。もし、何かあれば、浜田君は、何かの危険を感じ、犯人と距離を置いたはずである。浜田君が何かしらの危険が犯人から加えられるような予感を前もってもっていれば、みすみす無防備に刺されたりはしない。まず、普通は、逃げるはずである。人間にはある程度の予知能力はある。

 

 犯人に、気になる言葉がある。「約束ごとを守らないので腹がたった」、その言葉である。きっと、二人に何かしらの感情のしこりが残る出来事が過去にあったはずである。そう、それは、過去に消えて無くなる些細なものなのである。浜田君は、きっと、彼の青春の時間の流れのなかで、それを忘れていった。多情多感な青春時代である。ある意味、毎日が日曜日である。日替わり定食のように、どんどん、毎日が塗り替えられていく。三日前に食べた献立など、忘れるぐらいに、時間の流れが早いはずである。しかし、犯人の少年は、時間の流れがそれほど早くはなかったのかもしれない。本来は、過去は日めくりのカレンダーのように、ゴミ箱にすて、明日をどのようにいきるか、これから、どういう生き方をして、自分を確立していくか、そうして、異性と付き合い、どのように大人として成長していくか、それが、ある意味、高校3年生の夏の時代でもあるはずである。

 

 舟木一夫さんの青春譜ではないが、やはり、高校三年生である。それも、期末試験が終われば、長い夏休みである。勉強と友情と恋愛と、色々と複雑にまざった、人生で一番多情多感の不安定な時期である。ある意味、人の一生を決定付ける時期でもある。そう、本来は、けっして、マイナスになる時期ではなかった。しかし、二人にとっては、最悪な7月の4日になった。浜田君は、殺された。結果から見れば、今日という日に殺されるために今日まで生きてきたと言うことになるし、犯人は、今日という日に、同級生を刺殺するために、今日まで生きてきたと言うことになる。ある意味、残酷である。もちろん、殺された浜田君のご両親の無念さは想像にあまりあるし、犯人の親族は、これからどんな制裁がまっているか、その子供の十字架を背負っていかなければならない。長くてつらい時間がまっている。

 

 きっと、些細なことがことの発端だとおもう。約束事を守らない、いつの世でも、そうである。自分も約束事をまもらない。相手も約束事を守らない。普通はそうである。昔は、みんな同じような時間の流れがあった。高校三年生、ませた奴が、車で比較すると60キロ/hのスピードではしっていても、すこし、鈍感なやつでも、それでも20キロ/hの速度で走っていたものである。ませた奴は、女性と経験をもったやつも、いたかもしれない、しかし、大抵は、童貞であったはずである。そうして、高校三年の夏から、ひと夏、ひと夏、さらにひとの夏を経て、みんなすこしづつ大人になっていったのである。時間の流れが、ある程度、平等だったはずである。殺人などおきない、それ以前に、気にいらなければ、相手の家に出向き、何故だと、口論ですんだはずであり、最悪は喧嘩で終わったはずである。なぜなら、同じような速度で、同じような方向を向いて、みんな生きていたからである。多少のでこぼこはあっても、どこかで平滑化されたはずである。

 

 二人が通う高校は、当然のように、命の大切さを指導している、残念だ、というはずである。命の大切さ、人への思いやり、確かにそのとおりである。しかし、現実では、少子高齢化で、私立の先生のリストラもいずれ水面下で動いてくる。社会も二極化され、格差社会になっている。命の大切さよりも、明日の自分の生活が大切な場合でもある。人の心に流れる時間の速度差が、乱気流のように乱れている。流れが速まるのは、社会にでてからでいい。学生時代、すくなくとも、高校時代は、ゆったりと大河のようにながれるのがいいはずである。構造改革の弊害が、高校生の心の時間軸まで狂わせてしまったようである。

 

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