音楽の最近のブログ記事
加藤和彦さんが自殺してから、着うたにも、あの素晴らしい愛をもう一度、という曲がアップされた。私の年代から、中学生のときに、一声を風靡した曲である。当時は、今のように、どんな情報でも、ネットで公開されている状態ではなかった。異性を知るにしても、どうしたらいいのかわからない時代でもあった。今では信じられないだろうが、フォークソングやフォークダンスがあり、そこで、異性と触れ合うこと、異性の感触を感じることが、我々の思春期の始まりだった。そのときに、流れてヒットしたのが、あの素晴らしい愛をもう一度、なのである。林間学校などあった時代である。キャンプファイヤーを囲んで、フォークソングを歌った時代でもある。誰かが、ギターを弾いて、歌った記憶がある。1970年代の前半の遠い記憶の一ページである。頭の中で、そのギターの音色が静かに今でも鳴っている。いずれ、私もぼけて、あの世へと帰る。「あの素晴らしい愛をもう一度」をダウンロードして何回も聞いてみた。そうしているうちに、どうしても、あのときの音を再現してみたくなった。過去には帰れない。しかし、我々はやり残した事を追体験する事ができる。私の手元には、エレクトリックアコースティックギターがある(エレアコ)。それほど、高価はものではない。はるかに、廉価なパソコンよりも安い価格である。ピアノもやった。安いキーボードを使って、ベートーベンのピアノソナタ月光の第一楽章だけは、暗譜で弾けるところまでやった。エレドラムも、自分で納得するまで、叩き込んだ。音楽は、協和不協和の論理である。リズムとメロディとハーモニーの三つの組み合わせである。パソコンに、シンガーソングライターを入れて、自分で作詞、作曲、編曲、ミキシングまで、やった。しかし、そこから得られるものは、すべて、デジタルサウンドなのである。1と0のロジックの組み合わせの不連続のデジタルなのである。その周期が短いので、我々には連続したアナログと近似した音として認識されるが、実際には異なるものである。あくまで、合成的に作り上げたものである。
音楽をやっていると、人からよく誤解を受ける。私は今でも企業の経営者でもある。何かの目的がなければ、音楽などやらない。楽しいからやるのもあるが、習得するのは、なんどもしんどいものである。この歳で、新たなものをチャレンジすることは、道楽でやるのではなく、やらなければならないからやるのである。何かの目的や利や道理や義がなければ、しんどいことなどあえてやる馬鹿はいない。CADも、仕事がら、遣り通した。今度、プログラマブルコントローラーの総合シーケンサー支援ソフトを購入し、自分で作り上げた原理の主要な部分を、自分でCADで機械製図して、それを作って組み立てて、その装置の制御をプログラマブルコントローラー(PLC)をつかって、制御し動かそうと思う。仕事である。決して、楽しいことなどない。しかし、ある程度、分かってくると、木しか見えなかったものが、全体の森が見えてくると、やることはしんどいが、すこし、面白みが出てくる。分からないから、面白くない。分かってきて、そのロジックがみえてくると、何でも意外と簡単なものである。ほとんどの場合が、食わず嫌いなのである。私がやっている音楽も私の周囲の人には、その因果関係は分からないだろうが、いずれ、なるほど、と思える日が来ると信じている。その前に、私が先にあの世へ帰ってしまったら、それはそれでしかたがない。
ギターの練習ほど、ボケ防止には最高なものはない。左手で、弦を押して、右手で、奏でるという単純な作業である。弦の科学を物理的に見る必要もない。耳で聞いて、綺麗な音が出ているかどうかを判断すればいいのである。単純である。しかし、そう、簡単に綺麗な音が、和音として、協和、共鳴することなどない。開放弦、一つか二つを押さえる程度であれば、誰でも、それなりの音がでる。それでは、音楽にはならない。もちろん、ある程度、ギターをやるにしても、それなりの音楽の知識は必要であるが、しかし、何かの曲を弾きたい程度であれば、コードどおり、鳴らせば、いいので、小賢しい理屈など不要である。そう、だれでも、簡単だと、思う。しかし、実際は、非常に難しいものである。特に、コードFを綺麗に奏でようと思うと、それなりの努力が必要である。私の左手の指先は、すこし腫上がっている。
あまゆーずを通して、サンケイミュージックとコラボレーションをさせてもらっている。あまゆーずのキャラに対して何かのアクセントをつけるために、ご老公®のキャラを美粒の広告等を担当してもらっている林直樹君に、作ってもらった。出来るだけ愉快にし、サンケイミュージックの今後の景気づけに、私が(中野満)ピラポセラピーという曲を書いてつけた。もちろん、商業化する目的もなければ、予算もないので、DTM(コンピューター)で、自分で作曲し、編曲をした。さすがに、あまゆーずに歌ってくれとは、いえないので、クリプトンの仮想ボーカルソフトの巡音ルカちゃんに歌ってもらった。結構、面白いものができたと自負している。ある意味、歌詞さえ、作ってしまえれば、あとはすべてPC上の世界で、自分ひとりでできるものである。アレンジも、ルカちゃんのミキシングも、音楽作成ソフトと連動させれば、いかなるリバーブもつけることができる。ある意味、編曲やミキシングの面白みも味わうことが出来た。サンケイミュージック関係の人には、景気づけの目的で聞いてもらえたらと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=tiu8xAFHIDQ
下記に歌詞を明記します。
ピラポセラピー
それが、ピラポセラピー、ピラポセラピー
不思議なおまじない。
あなたのこと、好きだなんて、どうしてもいえない。
ふらふらして、ゆらゆらして、気持ちが直ぐにとんじゃう。
そんなとき、気持ちを合わせて、踊ると。
言葉とリズムがひとつに、とけるの。
だから、直ぐに気持ちが、ほら、明るくなる感じよ。
勇気が出て、なんでも、ほら、できるような気持ちね。
だから、ララララ、ラララ、ララララ、ラララ
ララララ、ラララ、ララララ、それが、
ピラポセラピー、ピラポセラピー
不思議なおまじない。
わたし、ひとりじゃない。みんなとともに、いきているの。
だから、明日の朝に、あなたの前で、好きだと言える。
それが、ピラポセラピー、ピラポセラピー
不思議なおまじない。
それが、ピラポセラピー、ピラポセラピー
不思議なおまじない。
ララララ、ラララ、ララララ、それが、
ピラポセラピー、ピラポセラピー
不思議なおまじない。
当たり前として生きていて、ふと何かの拍子に、その当たり前が当たり前と思えなくなるときがある。自分が何かに生かされていると感じる。そのとき、無性に数学が恋しくなる。数学と言うよりも、数式の論理の中に、自分を溶かしてみたくなる。一秒、一秒、時は確実に流れ、誰でも、あの世へと、いつかは、旅立つ。それは、順番でもある。先に生まれたものは、先に逝く。この世には美しいものがある。その美しいものの在り処が分かれば、あの世も数学的な美しさで満たされていると感じる。光と音、それは、数学でもある。仏像の流れる曲線も、数学的な美しさでもある。
エキセルで、協和度や不協和度をグラフ化していたら、だれでもが、知っている音楽のハーモニーについて、論じてみたくなった。それが、わかると、ギターやキーボードのコードが見えてくるし、それによって、作曲や編曲のこつまで、分かってくる。すべてが、人間がやることである。私ができることは、あなたもできるし、彼や彼女ができることは、あなたにもできるはずである。問題は、要領と勘所だけである。人間には、能力の差などない。健康でこの世で生活できれば、それで能力は十分ということである。
音楽で、重要な考え方のひとつは、協和と不協和というものである。それが、美しさの調和となっている。ピアノやオルガンのキーボードを見てほしい、白と黒の鍵盤が並んでいる。普通、ドの音を鳴らしてほしいというと、ハ長調のドをならす。なぜなら、そこから、白盤だけを順番にならせば、ドレミファソラシドになるからである。その最初のドを二回ならす。まったく、同じ音に聞こえる。高さも同じ、強さも同じようにたたけば、まったく同じ音に聞こえる。何も違和感はない。では、一オクターブ高い、ド、ドレミファソラシドの高い方のドをならす。ドは、ドと聞こえる。違いは、音の高さである。それ以外の違いはない。鍵盤をみれば、低い方のドと高い方のドには、白黒、合わせて12個の鍵盤がある。余談だが、ハ長調のレをたたいて、ミをたたいて、その次に、ハ長調のファの右横の黒の鍵盤をたたいて、その次に、ハ長調のソ、ラ、シ、とたたいて、ハ長調のドの右上の黒の鍵盤をたたいて、レと打ってもらいたい。同じように、ドレミファソラシドと聞こえたはずである。それが、ニ長調のドレミだからである。ハ長調のドレミとニ長調のドレミの音楽的な差はない、差は、音の高さだけである。半音高いだけである。
音は、波である。空気を媒介とする振動する粗密波である。太鼓をたたけば音がなるのも、太鼓の布が空気を振動させているからである。もちろん、空気がなければ、音は聞こえない。宇宙は、ほぼ真空で空気はない、だから、太陽の音は聞こえない。そのかわり、太陽からの光はこの地上に届く。音の性質を決めるのは、周波数である。ある時間(秒)に何回、振動したかである。ある音、たとえば、ラの音を、440Hzと決める。一秒間に440回振幅を繰り返している音である。一オクターブ高いラの音は、880Hzとなる、なぜ、同じ音に聞こえるか、それが、倍音だからである。880Hzの中に440Hzの音は二個、220Hzは、4個、綺麗にどこまでも収納されるからである。音の美しさはその規則性にゆだねられている。それが、協和というものである。ハーモニーの基本は、その協和、裏を返せば不協和の組み合わせにある。
ドから次のドまで、音は12分割されている。先ほどのハ長調のドレミと二長調のドレミが成り立つためには、それぞれが、同じ比率で分割されていなければならない。ある音と次の半音との周波数の比率は、すべての音に対して、約1.0594倍になっている。数式で言えば、2^(1/12)ということになる。倍音であれば、一オクターブの違いは、2^(12/12)=2、つまり、2倍ということになる。そして、重なり合うものは美しいということで、ある音とある音がどれだけ、同じ山で重なるか、その回数が多いほうが、協和度は大きいということである。一番は、同じ音、同じ周波数である。次に、同じ音で、オクターブ違いである。次は、ある音から、7半音目である。ハ長調のドからみれば、ハ長調のソである。下記に、不協和度のグラフをしめす。研究してほしい。それは、ある音からみてのグラフであり、音を特定するものではない。ハ長調のミからみれば、ハ長調のシが7半音目になる。これを利用すれば、色んなコードによる協和度も計算できる。ハ長調のドミソは、ドとミの関係、ドとソの関係、ミとソとの関係、また、一オクターブ高いドからのミの関係、ソの関係の総和にあたる。音楽は、すべてが、美しければいいのではなく、あえて、不安定をつくり、安定にもっていくものである。ドミナントのセブンスから、トニックへの進行はまさに、その筋道である。ドミナントとかセブンスとか、トニックとかは、専門な言葉なので、わからなくてもいい、専門家になるのなら、もちろん勉強したらいいはずである。感覚もいいが、ある程度、そのロジックのからくりが分かると、ぱっと、視界が開けるものである。ドミソを押さえて、次にソシレファを押さえてほしい、ものすごく、イライラするはずである。なぜなら、ドミソを最初にならしたからであり、人間の脳には、ドミソが安定だよと記憶させたからである。ソシレはGであり、それ自身、ト長調では、ドミソと同格である。ファは、ソに対して、それほど、協和する音ではない、だから、不安定になる。それと、ソシレファのシとファが、ドミソのドとミに対して、半音関係なので、不協和になる。だから、ドミソとうって、ソシレファとうって、しばらくして、ドミソと打てば、ほっとするのは、そのためである。では、ドミソのつぎに、ファラドと打ったら、すこし、あれと感じるはずである。ミとファの不協和があるからである。もちろん、そのままドミソに帰ってもいい、ファラドは、ドミソに対して、サブドミナントという関係にある。不協和が弱いから、サブである。そして、さらに、ソシレファとうてば、もっと不安定さは増してくる。ファという音で連結されるからである。そして、ドミソにかえると、ほっとする。コードでいえば、C-F―G7-Cであり、コード進行の教科書にのっている、I-Ⅳ―Ⅴ7-Ⅰという、あっぱれなコードになるからである。
下記に、ある音に半音関係のある音を重ねた波動をしめす。360度に対して、波長を10であるから、360度を一秒とすると、400Hz近辺の音であれば、360度に対して、40倍その波形が組み込まれていることになる。後は、倍音関係、ドなら一オクターブ違いのドである。それと、倍音以外に、次に協和する音、つまり、7半音上にある音である。それぞれを比べてみてほしい。それが、協和する協和しないという視覚的な差になる。赤が基本の音、緑が比較する音、青が重なった音(赤と緑を同時に鳴らしたときに聞こえる音)
世の中とは、残酷なものである。テレビやラジオから流れてくるデジタルサウンドは、エフェクトをかけているため、だれでもがそれなりに聞こえる。ライブにいっても、マイクからミキシング、そしてスピーカーとして、音が流れるから、裏でミキシングを掛ければ、それなりに、聞こえる。最近のコンピューターの技術を使えば、違和感はない。そういうものとして受け止めればそれなりに聞こえ、それなりのものだと錯覚する。もちろん、何の細工もなく、自分の声で勝負できる人も多々いる。そう、テレビやライブやラジオで流れているシンガーよりも、単純に歌のうまい下手のレベルからみれば、リスナーのほうに、それ以上に歌のうまい人がうじゃうじゃいるのも事実である。
歌がうまい、歌がすきだ、歌をつくるのもうまい、楽器が得意だ、多くの人が、自己主張の延長で、青春の夢として、ストリートシンガーまがいをはじめる。ある人は、シンガーを夢に見て、学校にかようかもしれない。優秀な点数をとって、もしやと錯覚するかもしれない。ストリートミュージッシャンも、それなりにうまければ、まわりから、拍手をもらう、事務所の人からやってみないかと声を掛けられるかもしれない。もしやと錯覚する。最近では、色々なところが、新人発掘みたいな企画をつくり、オーデッションを行う。昨今、大きな商業施設のイベント会場でも、その営業戦略として、オーデッションを行う。もちろん、誰かが、一位になる。しかし、大抵はそれでおわりである。賞味期限は、その単年度限りである。なぜなら、次年度には次のトップの人がくるからである。もちろん、そのオーデッションのトップか次席になれば、もしやとだれでもが錯覚する。
冷静になれば、分る話であるが、若いうちは自分をなかなか客観的に見ることなどできない。ついつい、自分の才能にうぬぼれてしまう。いい曲ができたとおもっても、大抵は自画自賛で終わってしまう。なぜなら、いい作品が必ずしも売れるとは限らないからである。売れ始めるには、どの場合でも、ある山を越えるだけのエネルギー、商業活動でいえば、お金が必要だからである。その山を越えれば、そう、まちがいなく、いい曲は、売れる。自分の曲と大衆(ユーザー)とが、相互に作用しなければ、売れないからである。この場合の相互作用とは、接触回数でもある。露出度と繰り返し数である。何回、自分の曲を聴いてもらったかでもある。それなくしては、売れる状態にはならない。それが活性化エネルギーであり、それが十分にあれば、売れることになる。それが、俗にいう一山ということである。歌がうまくても、曲がよくても、才能があったとしても、その山をこえるだけのエネルギーをもらわないと、山は越えられず、相互作用は起きない。
グラフをみてもらえればいい、ある月のオリコン月間シングルの枚数と順位である。順位と枚数とが、指数関数的になっている。よく調べると、上位20位ぐらいで、ほぼ全体の7割、上位30位ぐらいで、ほぼ全体の8割の売り上げを占めていることがわかる。これは、間違いなく、格差社会構造を意味している。強いものが、独り占めする、社会である。平等に機会が与えられている社会でなく、自由競争のなかでの、資本のあるもの、才能があるものだけが、独占する社会である。ネット社会が浸透し、シンガーとリスナーとが接触する機会が多様化するため、この傾向はますます顕著になるはずである。 つまり、ある程度、山を越え、メジャーデビューを果たしても、5年10年生き残れて、しかも、シンガーだけで、食べていけるには、さらに、その次にも、山があることを意味している。それが俗にいう、一発屋である。ヒットして、すこしにぎやかにして、そうして、忘れ去られ引退するパターンである。メジャーデビューした人の8割がそういうことになる。女性シンガーは、それでもいい、一回、脚光を浴びれただけでも、幸せというものである。もちろん、相互作用を起こして、一山を超えた人たちであるから、普通の女の人に戻るにしても、良縁に恵まれることは確かである。
5月27日、サンケイミュージックから、あまゆーずが、水の記憶/心のひまわりというタイトルでCDデビューした。聞き手が、この曲をどのように感じ、どのような形で心の中に止めるか、それは分からない。感じたまま、慈しんでくれたら、それでいいと率直に思う。作詞者として、それに関して、何もいうことはない。ただ、こんな一連の美粒ブログを、丁寧に読んでくれる人が少なからずいる関係で、その人のためにも、すこし、コメントを書いてみようと思う。その視点から、この曲を聴いてもらえたら、もっと、味わいが出ると思う。ただ、それだけの思いですこし、書き記すことにする。
この歌詞の最大の思いは、すべてを肯定した点にある。正しく、色即是空、空即是色の世界観を家族という流れの中で表現したかったのである。「色即是空とは、この世は、虚しく寂しい幻みたいなものである」ということである。それだけであれば、水の記憶などなくていい。すべてが、否定される。般若心経は、それを反転させる。その幻みたいなものが、この世である。それだから、いいのであると大胆にもそれを肯定させるのである。否定されるものだから、それを全肯定したのである。ある意味、開き直りかもしれない、しかし、それは勇気がいることである。否定はやさしい、しかし、すべてを肯定するのは難しい。肯定したから、今度は、この世でがんばって生きることができるし、命をつなぐことができるのである。空の色、海の色、花の色、水の色が好き、とはそれを肯定し、受け入れたことである。あなたもわたしもパパもママも、人間のすべてが好きと、それをも肯定し、さらに、過去も未来も好きと、時間まで肯定したのである。つまり、森羅万象、この世の時空間にあるものすべてが、好きと肯定したのである。そして、その肯定した時空間で、愛と夢が交わり、重なって、命が受け継がれていくことになるのである。また、その全体の場が、ひとつの地球である。みんなと一緒に、森羅万象のすべてを肯定して生きていくことを、この星に、記憶させたのである。地球とは、水の惑星である。水があるから、命が生まれたのである。
そして、最後に言いたかったのは、一人一人の命、肯定された命は、光となる。人の心は、脳の中の水の中で、リズムよく光の粒がゆらぐことで生まれる。その光の集合体こそが、人。そして、水の中に集まった命の集合体が、この地球でもある。宇宙からみれば、この地球は、美しい粒である。だから、美粒である。この素晴らしい星のありかを、未来までつなげてほしい、私も何年生きられるかわからない、少なくとも、100年後は、存在していない。100年後、1000年後も、この素晴らしい命を、この素晴らしい地球で、つなぎとめてほしい、ある意味、温暖化を止めて、いつまでも、美しくて、人の優しさを受け止めてくれる大きな美粒(地球)であってほしいと、願ったのである。無理かもしれない。だから、未来の水に記憶させてと願ったのである。未来の水とは、未来に生まれる子孫でもある。その人たちに、この地球の命を守ってとお願いしたのである。
もちろん、あまゆーずには、そんな話はしていない。そんな難しい話をしても意味がない。そんなことは、あえて言う必要もない。多くのあまゆーずファンには、どうでもいい話である。こんな美粒ブログでも、読んでくれる人がそこそこいる。解析ソフトで分析しているので、このブログも、確率論に従い、好んで読んでくれている人がいることがわかる。その人たちには、上記の意味は、分かっていただけると推察する。水の記憶の歌詞は下記のとおりである。サンケイミュージックのあまゆーずのオフィシャルサイトに入ると、メロディが聞ける。興味があれば、入ってもらえればいいと思う。http://www.amayuzu.com
水の記憶
ずっと側にいるから、あなたもここに、来て。
ママもパパとであったの この世界(ホシ)で
愛と夢が交わる 輝かしい時を
あなたと二人で 重ねていくの
空の色が好き、海の色が好き、
なんて豊かな このやさしさ
花の色が好き、水の色が好き、
なんて綺麗な このひととき
このほしの光集めて 未来の水に記憶させて
いつまでも 忘れないでね あなたがいて ママがいて
新しい時代を作るの この世界(ホシ)で、
愛と夢が交わり 希望の時を
あなたと二人で 重ねていくの
こんなにあなたが好き、こんなにもパパが好き、
なんて大きな この輝き
今も昔も好き 明日も未来も好き、
みんなと一緒にずっと 生きていく。
このほしの光集めて、未来の水に記憶させて
小さな光あつめて、大きな美粒(地球)にして
このほしの素晴らしさを 未来の水に記憶させて

