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        <title>美粒ブログ　〜水の記憶〜</title>
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        <copyright>Copyright 2010</copyright>
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            <title>大谷武三郎先生と出会いました。</title>
            <description><![CDATA[<span lang="EN-US"><o:p><font color="#000000" size="3" face="Century"> 
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　あれから、もう４ヶ月が経過した。この前のブログが１２月の末である。かれこれ、４ヶ月、ブログの存在を忘れていた。今日、ある会社の社長さんから会社に連絡があった。このブログを読んだそうである。私は、そういえば、ずっと書いてないことに気づいた。何故、書かなかったか、一つは、忙しかったからであり、もう一つは、書く時間があるなら、ギターの練習をしたかったからである。そして、休みの日には、毎週、パソコンをつかって、曲を作っていたからである。仮想ボーカル、巡音ルカのソフトをつかって、作詞、作曲、編曲までやる。最近では、４<span lang="EN-US">-</span>５時間あれば、ＭＰ３の音源まで、取り出せるようになった。まだ、ステロイドをのんでいるので、喉を開くことができないが、それでも、ギターで自分が作った曲を弾き語りして、楽しんでいる。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　ひょんなことで、大谷武三郎先生とであった。大阪日日新聞の普遍教育実践講座を毎週連載されておられる先生であり、兵庫日華親善協会の会長でもある。最初に出会ったとき、先生は、この私にも、その膨大な実践講座の連載分のコピーをお渡しになった。私は、その姿勢にびっくりした。そして、この私にも、その後の連載した分をメール便で送ってくださる。私は、世の中には、こんな先生がいらっしゃるものだと、感心した。その後、先生は、先生のお弟子さんで、色彩占い（ループカラー）の甲月佑季さんを連れてこられた。彼女の本名を書くと、問題がありそうなので、書かないが、実に、感受性の強いきりっとした女性だった。この色彩占い、陰陽道の相克をベースに、実に卓越した分かりやすいロジックで構成されていた。無料でＨＰから入れるので、ループカラーと検索をかけて、やられたらいい。私には、アイボリーをつけたらいいと、指導してくれた。なるほどと自分が思えば、自分で自分を導くものである。そう、あたることになる。先生は、ときどき、私をカラオケに連れていってくれた。そのときは、そのお弟子さんもいっしょである。その甲月さんも、実に歌がうまいのである。そのお弟子さんに歌の指導をされているのが、先生であるから、大谷先生の歌もたまげるぐらいのものである。それから、私は、勝手に先生の弟子と名乗ることにしたのである。近々に、先生の考え方、生き様を歌にしようとしている。先生は、今、色々とお忙しいので、私が勝手に曲を作ろうとしている。今なら、半日もあれば、ある程度のカラオケまで作れるので、近々に聴いてもらい、歌詞を校正してもらい、歌ってもらうようにお願いするつもりである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　私の本業は、多段減圧モジュールの技術の伝播にある。自分が作った装置原理である。特許も日本、アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国と持っている。大谷先生は、重力の三原則の重要性を述べておられる。求心性、対抗性、規範性である。私の技術の根幹も同じである。対抗性とは、外にでる力である。求心性は、それを押さえようとするうち向な力である。その程よいバランスが美しい秩序となり、これが規範性である。強ければ、みだれる。押さえつければ、固化してしまう。水を例にすれば、外部から温度を与えれば、水は外向きにみだれようとする。しかし、水を外から押す大気圧と、水が内向きにもっている張力によって、外向きに乱れようとする力とそれらが相殺している。外向きの力（温度）が１００度になれば、水は水蒸気となってしまう。逆に、おさえつければ、（０度以下にしてしまえば）、氷になる。自由度がなくなる。水の引きこもりが氷である。水は、液体の状態が美しい、それが美しい秩序ある状態である。それが規範性となる。ちなみに、１／ｆのゆらぎとは、その美しい秩序なる状態のことである。ＦＦＴで分析すると、私が開発した装置からそのゆらぎの音が検出されるからである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　私は、この宇宙の外側になにかあると思っている。この宇宙は、美しい秩序がある。そして、対抗性、外に膨張するエネルギーをもっている。なら、それと逆な力が、外側から背圧としてかかっているか、内向きに引っ張る力も同時にこの世に存在しているはずである。それが先生のいう求心性である。そのバランスの上に、時間が存在し、そして、生命も存在している。エネルギーと時間は相関する。だから、エネルギーがつよければ、時間は短くなり、エネルギーが程よく外にむかえば、時間も程よい長さとなる。先生がのべている対抗性と求心性の規範（バランス）がよければ、それだけ、充実したほどよい長さの人生を得られるのは、あるいみ道理である。だから、命ある世界、この世は美しい秩序の規範性に支配されている。それを乱そうとすれば、やられ、それに封印されれば、自閉する。その陰（求心性）と陽（対抗性）の調和が規範性であり、あるいみ、その秩序の中で、ゆらぐことが、幸せということになる。その原理を基にして作ったのが、先生が考案された色彩占いである。だから、私は、一通り、見て、それを信じたのである。それが、私がつくりあげた装置の原理、たぶん、それは宇宙の原理だとも思っているが、そのロジックで説明できるからである。先生に、上記の話をしてみた。そのとおりと言ってくれた。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　私は、先生の弟子だから、どこかで、アトピー治療をこの目でみることになるかもしれない。また、数ヶ月の期間が開くが、私が生きていれば、面白い内容がこの後綴られると思う。先生の名前と普遍教育実践講座とで検索をかけると、先生が代表取締役である会社のＨＰの中に、先生の講座が収録されているのがわかる。一読されたらいいと思う。このブログがもしこれで途切れて、半年以上空白があれば、私は、あの世へいったと考えてもらえたらいい。あの世から、ブログはかけないが、もしそうなれば、私は先生の弟子だから、あの世から先生を動かして、私の思いを書いてもらうかもしれない。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"></font></o:p></span>&nbsp;</p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ 明朝'; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font color="#000000" size="3"></font></span>&nbsp;</p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2010/04/post-515.html</link>
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            <pubDate>Tue, 27 Apr 2010 21:23:55 +0900</pubDate>
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            <title>孤独死の時代</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　親子３代というのが、やはり理想的な家族だと感じる。しかし、少子高齢化や核家族化で、それが、崩壊している。子、親、祖父母、この関係が、昔から、ずっと引き継がれてきた。それが家の系図となった。弊害もあるが、それによって、時代時代によっての人の役割も決まっていた。子が親になり、そうして、祖父母になり、墓にはいる。あの世の世界にはいる。科学がどんなに発展しようが、この世の先になにがあるかなど、実証することなど、永遠にできない。文明が発達しても、所詮は、この世の中の出来事である。コップの中の嵐でしかない。目を閉じ、心肺が停止すれば、それは死である。１分前まで、元気であっても、一瞬に持っていかれることもある。寝ているのなら、ゆすれば、目をさます。しかし、死は、ゆすっても、目を覚ますことはない。必ず、だれでも、遺体になれば、火葬される。数時間で骨になる。どんな偉い人も、どんな高貴な人も、最後は、骨になる。それは、まぎれもない事実である。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　子が、親になる、そして、子が生まれる。いずれ、祖父母が死去し、親が祖父母になる。この順番は、変わらない。不安定になるのは、それが崩れだしたときである。子と親と祖父母、祖父母がなくなれば、子と親だけとなる。不安定である。そして、子だけがひとりになれば、さらに不安定である。人は、家族の中で支えあって生きるものである。もちろん、親、自分が親の立場であれば、そこに、妻がいる。妻に先立たれれば、ひとりになる。そう、少子高齢化と核家族化の悲劇は、自分も含め、これから始まる。晩年は、だれでもが、孤独死を迎えるということである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　戦後、日本は復興の名の下に、高度成長を迎えた。バブル絶頂期は、飛ぶ鳥を落とす勢いで、すべてを金で買い捲った。そして、冷戦終結後、中国が市場経済の中にどっと参入してきた。ものやお金がシフトするのは、当たり前の話である。高いところから低いところへものが流れるように、お金も流れていった。地球規模が一定であるように、経済活動も、無限ではない、限りがある。中国が豊かになれば、その分、日本が落ちるのは当然である。少子高齢化、核家族化の結末は、ばらばらになった個人に帰ってくる。それが、孤独死であり、無縁仏化である。日本の伝統のなかで、祖先は供養されてきた。盆や正月は、祖先の魂が家に戻ることを意味している。しかし、もどる家がないし、供養する系図がない。永代供養も、本来は、系図があっての話である。時間のスパンを、億年単位で考えれば、３０億年後には、地球は太陽に飲み込まれてしまうため、永代供養も、なくなるが、そこまで、悟りきれて、孤独死をおおらかに受け入れられる人は、それほどいないはずである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/12/post-514.html</link>
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            <pubDate>Sat, 26 Dec 2009 19:17:21 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>陰陽道、あの世とこの世との架橋（左脳と右脳の架橋）</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　左脳は、現実を支配し、論理を操り、近未来から近過去の因果律の中で動く。それとうらはらに、右脳は、虚を支配し、論理を超越し、遠過去と遠未来とをつなげている。もちろん、そんなことは定説にもなっていない。勝手に言っているだけである。しかし、どうも、そんな気がする。時々、眠りから醒める瞬間、あの世を感じる。その瞬間、確かに、自分は存在していない、そして、いない自分が、その瞬間に自分の肉体の中に帰ってくる、そんな感覚をもつ。いつか、自分も死ぬ。何事もなかったかのように、世の中は動いていくだろう。そこにもはや恐れはない。今日も、私は、この世に、いる。何故いるのか、良く分からない。しかし、何かの理由があって、ここに、いるとしか思えない。たしかに、この世がなぜあるのか、わからない。私がいなくなったら、私にとってのこの世はなくなるが、この世にいる人にとってのこの世は、私がいなくなっても存在するだろう。なぜ、なのか、良く分からない。突き詰めていくと、何もかも分からないのが正解である。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　世の中は、プラスとマイナスがある。陰陽でもいい、二つが交わると、ひとつになり、何かが生じる。離れると、消滅する。ある程度、人生を生きていると、どうも、世の中は、そういう仕組みになっていると気づく。自分は、微小変化型ネフローゼを患った。ことし、３２年ぶりに、再発し、副腎皮質ホルモンを投与され、数週間で、尿中の蛋白が陰性になった。基本的に、その病気の本質は、何故か、腎臓の糸球体が荒くなり、アルブミンという蛋白を排出するというものである。だから、基本的に、尿中の蛋白がなくなれば、<span lang="EN-US">OK</span>というわけである。原因はいまでもわからない。しかし、私には、どういうメカニズムでなおっていったのか、感覚的にはわかる。なぜなら、自分の体の中の出来事だからである。もちろん、若いときなどそれはわからない。しかし、この年になり、色々なことを見聞きし、経験をつんでいくと、それが見えてくるものである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　確かに、年甲斐もなく、無理をしたかもしれない。何かの理由で、陰陽が離れたのである。我々が作用をうける力としては、電磁力がメインのはずである。それが、離れかけた。完全に離れれば、たぶん、この世からさよならのはずである。それが、復元力でもとにもどろうとした、なぜか、それが、キチンとうまくもどらず、どこかに、引っかかった。そして、その引っかかった状態で、細胞が再生された。それが、病気である。蛋白が尿中から出て行く状態である。そうなったら、どうすることもできない。がんじがらめの状態である。そのために、副腎皮質ホルモン剤が投与された。それでないと、引っかかった状態が外れなかったはずである。私の体を副腎皮質ホルモンで、乱したのである。乱れれば、元にもどろうとする。まだ、復元力が私の中に残っていたからである。そして、副腎皮質ホルモンで、自我を抑圧したために、それが、すっともとの状態に復元されたのである。砂を乱せば、にごる。しかし、時間と共に、すっとそれらは沈降していく。綺麗な海水に戻るのと同じ原理である。激しく乱せば、自己も壊れる。副腎皮質ホルモンの副作用はきついが、命を消滅させるような激しい乱れを生じさせる副作用はない。たまたま私の病気は、それで復元できる病気だから、今でも生きていられるのである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/12/post-513.html</link>
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            <pubDate>Sat, 05 Dec 2009 20:20:05 +0900</pubDate>
        </item>
        
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            <title>左脳で現実を考え、右脳であの世を夢に見ている。</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　自分は、どのように、この世を去るだろうかと、時々考える。今日も、定期的な検診で、病院にいった。プレドニン（副腎皮質ホルモン剤）も、減らされた。微小変化型ネフローゼで退院して、約四ヶ月弱、退院時から比べると一日のプレドニンの量が半分になった。指数曲線的に、ゆっくりと減らしていく予定と、担当の綺麗な女医さんは、言っていた。そうか、と思った。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　やはり、病院は、辛いところである。毎日、生き死にの連続である。生まれてくる人もあれば、死んでいく人もいる。病人を付き添ってくる家族の人も、落ち込んでいる。明るく笑っている人は、あまりいない。しかたがない。明るく笑っていられる人なら、きっと、病院など来ないのだから。病院から会社にいってメールを開いたら、若者から、メールが届いていた。どうして、私のメールアドレスが分かったのか、不思議だったが、二年前に書いたあるブログの一節に、それがかかれてあることを、弊社の<span lang="EN-US">HP</span>の管理者から、言われた。なるほどと思った。そんな古いブログでも、読んでくれる人がいるのかと、率直に思った。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　同じ病気だと書いてあった。２２歳の大学生と書いてあった。再発するのが怖いと書いてあった。たぶん、多情多感で、さらに、ステロイドが投与されていれば、病的な感受性の波に襲われるはずである。経済が、右肩上がりであり、若者が、未来に自分の夢を託すことができる時代なら、未来を憂い、不安になることもないだろうが、こんな時代である。自分を支えきれなくなるだろう。容易に想像は付く。がんばりなさいとしかいいようがない。どんな嵐でも、必ず、収まる。大地震が起きても、必ず収縮する。乱れて、激しい心の振動をうけても、時がくれば必ず減衰していく。若さがいずれ失われるように、どんな激しい波動でも、時間とともに、減衰する。外部から、心を乱すエネルギーが供給されなければ、必ず静まる。それが、人生であり、それが、この世もあの世も含めた森羅万象の定めである。なぜ、そうなっているのか、何回も書くが、それは分からない。だから、生まれる前も、死んだ後も、分からないのである。そう、心配はいらない。心配する必要もない。焦る必要もない。ゆっくりと、時間が過ぎていく感覚を味わえばいい。難しいかもしれない。しかし、人生は長い。１００歳まで、生きたらいい。それからみれば、今の時間は、一点の粒でしかない。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　きっと、左脳で、現実を見ている。近過去と現在と近未来の因果律が見える世界を左脳でみている。だから、言葉が支配する。ロジックが支配する。意識が支配する。つまり、この世の実数的な世界である。それから遠くにある世界、遠い過去、遠い未来、それは、この世の裏側の世界、イメージの世界、無意識の世界、非論理的な世界、ある意味、虚数的な世界である。それが、生まれる前の世界であり、死んだ後の世界である。あの世かもしれない。左脳と右脳はつながって、相互補完している。だから、左脳で現実を考え、右脳であの世を夢みている。自分がどのようにして死んでいくのだろうか、それを思うようになった。妻の母が数週間前になくなった。その死顔をみた。世話になった人だから、自分にとっては、重要な人であった。しかし、なくなってみれば、そんなものか、なのである。しかし、その義母がどこかで見ている感覚は自分にはある。右脳の中で、そのゆるやかなイメージは存在しつづけている。そう、自分も必ずいつかそうなる。それがいつくるか、そのとき、何をおもうだろうか、それを想像してみた。飯島愛さんもなくなった。大原麗子さんもなくなった。著名な人も、ネットで調べたら、あの人もすでになくなっているのか、そう思った。人は、すっとこの世から消えていく。そうして、あの世へと拡散していく。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/11/post-512.html</link>
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            <pubDate>Mon, 30 Nov 2009 22:29:52 +0900</pubDate>
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            <title>右脳を刺激するならギターをやったほうがいい。</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　ぼけないためには、ギターをやったほうがいいと、かつてブログでかいたことがある。あれから、暇なときは、ギターを鳴らしている。この歳でも、左指先が硬くなってきている。人間とは不思議なものである。ツメの先を保護するように、その先端が盛り上がってきている。金属弦を押さえても、痛くならないようになってくる。あきらかに、左指先と右指先では、左の方がごつくなってきている。まるで、左利きかのような按配である。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　素人の私があえて言わなくても、大脳生理学者は、右脳を刺激するなら、左手をつかえと常時言っている。私もすこし人生を相対的に長く経験しているので、ギターほど、それにぴったりとするものはないと思っている。最初は、エキストラライトという弦をつかっていた。一番細いだけ、押さえやすい。それで、なんとか、バレーコードも引けるようになった。そうすると、バレーコードが、なぜ、うまくいかないのか、考えた。やはり、指先がキチンとそれぞれの弦を押さえられないからだと、察した。確かに、若いお嬢ちゃんも、あんちゃんも、ある程度、ジャンジャカならしている。自分ができないはずがないと、考えて、ここ一ヶ月間やりとおした。驚いたことに、この歳でも、ある程度、弾けるようになった。<span lang="EN-US">F</span>のようなバレーコードも、カボタストを１フレットに押さえ込んで、２フレット、３フレットを押さえれば、美しい<span lang="EN-US">F</span>（ファ、ラ、ド）が響き渡る。カポタストを外すと、出てこない。それは、自分の指先の力がたりないか、均一に抑えられていないかのどちらかである。しかし、力がたりないことはない、なぜなら、お嬢ちゃんでも鳴らせるからである。均一に押さえられていないのは、左のひとさし指の側面が、弦に対して慣れていないからであると悟った。これは、今日言って、明日できるものではない。練習して、弦に対して自分の指先が反応して強くなるしかないと思った。２－３週間目前後から、指の硬さが変わってきた。そうすると、バレーコードがある程度綺麗に響くようになった。もちろん、定常的にはないが、それは練習時間に比例するはずである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　ギターの教本を覗いてみたらいい、コードを押さえ、綺麗に音が響いて、自分がすきなリズムで、コードチェンジをしながら、爪弾いてお終いである。<span lang="EN-US">DVD</span>もある。それをみても、特に、何も書いてない。別に、音楽理論やコード理論や不協和曲線など、必要もない。ジャカジャカならしていけばそれでいいといえばそれまでである。考えてみれば、これほど、廉価で面白い楽器はない。どこでも、好きなときに、コードを鳴らせばいいのである。マイナーコードを、ある規則でならせば、美しい哀愁のあるメロディがだれでも一つや二つは出てくる。誰でも、シンガーソングライターになれる。もちろん、それでお金が取れるレベルまでいくには、相当な努力がいるが、それなりの人生をあゆんで、あの世に帰る我々の世代の人間には、マイナーコードをそれなりに鳴らすだけでも、十分なことだと思う。そんな響きを味わえただけでも、ある程度、しあわせなことだと、思えることができたら、あの世へ行く準備ができたと考えてもいいはずである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">General</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 29 Nov 2009 20:41:02 +0900</pubDate>
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            <title>人の死について　（この世で生きる為の浄土観）</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　いつか、人は死ぬ。どんなにわめいても、どんなに泣き叫んでも、それは、平等に訪れる。特に、身近の人がなくなると、激しく無常を感じる。心のどこかで、知らない間に、相互依存ができていたら、その依存する相手がなくなれば、自分のよりどころも失われてくる。両親、家族、友人、ともに同じ空間を同じ時間過ごしてきた意識がどこかにある。難しい言葉で言うと、共時共有性という言葉になる。いつか、自分も死ぬ。自分の死は、自分がいなくなるのだから、それが恐ろしいのは、当たり前である。しかし、その感覚は、自分が生きているから生まれるので、自分がなくなれば、それすらない。それを思うこともないのだから、恐怖も出てこない。だから、その恐ろしさの根源は、自分の想像力の賜物である。自分にその順番がくれば、あの世へといく。生まれる以前と死んだ後も、自分がいないのであるから、それは同質である。自分が生まれる以前がわからないのだから、死んだ後もわからない。しかし、自分自身の死は、自分である程度制御できる。いずれにしても、自分がこの世を去るとき、脳内麻薬を出し、<span lang="EN-US">DNA</span>をきって、記憶をリセットする。人があれこれと人の死を想像するのは、己の死後の有り様ではなく、死者を見て、自分があの世に行くまでの間、この世でいかにして生きるかを問いかけるための契機だと想像する。宗教も結局は、死者の霊の供養というよりも、その儀式や体験を通して、自分がいかにして、この世の中で、乱れず生きていくかを学ぶことであると考える。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　だから、十人十色なのである。そこに色々な宗教観がでてくるのである。ある意味、生き残る人のための宗教であり、生き残る人のための葬儀なのである。逆である。死者の霊を供養する、それが表なら、裏には、自分の生を見つめなおすきっかけとしなさいと死者がそう語りかけているようである。日本人は、独特な浄土観がある。それは、この世で、十分に生きれなかった人が、あの世で、幸せになってくれと願う気持ちが美しい浄土観となったのだろうと感じる。この世で、現世利得を得られて十分に生れたのなら、あの世を夢見ることもなく、あるがまま、なすがまま、で十分に生きたという満足感のもと、大往生するだろう。しかし、多くの日本人は、家族のために、自己犠牲を強いられてきた。そう、周りの人が、浄土を夢見るのである。あの世で、この世でできなかったことをしてくださいと、それが、あの世なのである。だから、彼岸には、死者のすきなものをお墓にお供えするのである。誰でも、願うのは現世利得である。この世に何かの因縁で生を受けてから最後の終末まで、十分だったと思って大往生できる人は、数少ない、多くの人は、未練や不安や怨念を残して、旅立つ。ある意味、十分に生きるエネルギーを消化できずに、乱れた状態でこの世から消えるからである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　人は同じエネルギーをもつ。それを、使い切れば終わりである。でも、だいたいはどんなに長くても１００歳までである。９０歳代でなくなれば、大往生ということになる。そこまで、みだれずに、その与えられたエネルギーを、生きること以外のエネルギーに消費されれば、それだけ、短い命となる。だれも、神様や仏様がいるかどうかなど分るはずがない。それが信仰である。信じるか信じないかである。人の勝手である。人の命の目的は、できるだけ、自分に割りふりされた生のエネルギーを生きるエネルギーに使うことだと考える。それが私の持論でもある。私が作り上げた微粒子化の原理も、できるだけ、微粒子化以外に消費されるエネルギーを少なくするにはどうしたらいいかを考える方法論である。人の死を見ていると、まったく同じであると思えてくる。死者の魂がそう語りかけてくるような錯覚を覚える。生きるうえで、神様が必要なら、神様を信じたらいい、誰もそれに対して<span lang="EN-US">NO</span>いうことはできないし、いえない。死んだ両親や家族があの世で幸せに暮らしていると信じたほうが、自分が楽になり、それにより、自分がこの世で生きやすいようになるなら、それはそう信じたほうがいいし、それが、その人にとっての真実となるのである。傍から、どうのこうのいえる問題ではけっしてない。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/11/post-510.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">宗教</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 14 Nov 2009 09:26:10 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>海外製のPLCを搭載した装置をガラクタといった日本人がいた。</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　装置を動かすには、制御が必要である。機械を知らない人は、<span lang="EN-US">PLC</span>（プログラマブルコントローラー）という言葉もしらないかもしれない。機械（装置）を扱う人にとっては、シーケンスプログラムを書いて、それで、自動化制御をかけるのが、どれほどの意味をもつか十分にわかる。たとえ、ハードが立派でも、それを動かす制御系がなければ話にならない。ボーイング７７７も、制御系がなければ、単なる箱でしかならない。制御系がおかしくなれば、もちろん、飛行機は飛ばない。何かしらの原因で、突然、制御系がおかしくなったら、飛行機はガラクタである。滅茶苦茶になれば、落ちてしまう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　装置も、ハードとソフトがある。コンピューターも、ソフトがなければ、単なる邪魔な箱である。まさしく、ガラクタである。もちろん、ソフトがあっても、それを動かすハードがなければ、それも意味がない。不即不離の関係にある。最近の装置は、ほとんどが、自動機である。複雑な動きをさせる。単純なものであれば、もはや中国製のものでも十分である。トヨタがなぜ頭が痛いのかは、<span lang="EN-US">EV</span>車は、部品点数がすくなく、単純な組み合わせで動くからである。モーターの力ではない。バッテリーの効率が向上したから、充電の効率がアップしたから、大容量が可能になったから、<span lang="EN-US">EV</span>車ができるのである。それも微粒化の技術なのである。部品点数が多ければ、それぞれの部品のかみ合わせにすこしづつノーハウがある。それが多ければ、それだけ、不確定なところが増えてくる。誤差がうまれる率がふえる。だから、トヨタと同じ車は、なかなかつくれない。しかし、<span lang="EN-US">EV</span>車なら、どこでもつくれるのである。単純だからである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　どうも、日本人は、天狗になったようである。昔のハングリーな精神を忘れてしまった。技術に対しての謙虚さがなくなってしまった。自分たちの技術が最高であり、自分たちの作るソフトが最高とうぬぼれてしまった。本当の技術力というのは、応用力でもある。そこに謙虚さがなければ、話にならない。海外製の装置があった。複雑な制御をしていた。<span lang="EN-US">PLC</span>を複数ならべ、それをパソコンから制御をかけていた。<span lang="EN-US">PLC</span>とタッチバネルとの組み合わせに近いものである。<span lang="EN-US">PLC</span>は欧米のもので、<span lang="EN-US">STL</span>というパソコンの言語に近いものでかかれてあった。それを解読できる日本人はそれほどいない。日本であれば、各<span lang="EN-US">PLC</span>メーカーが専用ソフトをもっており、それをユーザーに高く売りつけ、それで、ラダーというプログラムを書かせ、装置を走らせている。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　確かに、その<span lang="EN-US">PLC</span>のプログラムに何かがあれば、それでお終いである。高いお金を支払って、来て直してもらわなければならない。もし、その技術者やその会社がなくなれば、それを直すことは不可能になる。そういう状況をみて、ある制御が分かる日本人は、その装置をガラクタだといったのである。本来であれば、「ハードを解読すれば、それぞれの制御系の入出力信号がわかるはずであるから、それを日本製の<span lang="EN-US">PLC</span>に入れ込んでそれにあうラダーに作り変えれば、問題はありません。ただ、お金がかかりますけど、がらくたにはなりません」というべきなのである。もちろん、一から作り直すのと同じであるから、そのハードの細かい原理や運転状況、特性なども、十分考慮して熟知していなければならないのは当たり前である。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/11/plc.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">General</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 11 Nov 2009 22:15:28 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ボケ防止には、ギターが最高である。（青春時代のやり残した事）</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　加藤和彦さんが自殺してから、着うたにも、あの素晴らしい愛をもう一度、という曲がアップされた。私の年代から、中学生のときに、一声を風靡した曲である。当時は、今のように、どんな情報でも、ネットで公開されている状態ではなかった。異性を知るにしても、どうしたらいいのかわからない時代でもあった。今では信じられないだろうが、フォークソングやフォークダンスがあり、そこで、異性と触れ合うこと、異性の感触を感じることが、我々の思春期の始まりだった。そのときに、流れてヒットしたのが、あの素晴らしい愛をもう一度、なのである。林間学校などあった時代である。キャンプファイヤーを囲んで、フォークソングを歌った時代でもある。誰かが、ギターを弾いて、歌った記憶がある。１９７０年代の前半の遠い記憶の一ページである。頭の中で、そのギターの音色が静かに今でも鳴っている。いずれ、私もぼけて、あの世へと帰る。「あの素晴らしい愛をもう一度」をダウンロードして何回も聞いてみた。そうしているうちに、どうしても、あのときの音を再現してみたくなった。過去には帰れない。しかし、我々はやり残した事を追体験する事ができる。私の手元には、エレクトリックアコースティックギターがある（エレアコ）。それほど、高価はものではない。はるかに、廉価なパソコンよりも安い価格である。ピアノもやった。安いキーボードを使って、ベートーベンのピアノソナタ月光の第一楽章だけは、暗譜で弾けるところまでやった。エレドラムも、自分で納得するまで、叩き込んだ。音楽は、協和不協和の論理である。リズムとメロディとハーモニーの三つの組み合わせである。パソコンに、シンガーソングライターを入れて、自分で作詞、作曲、編曲、ミキシングまで、やった。しかし、そこから得られるものは、すべて、デジタルサウンドなのである。１と０のロジックの組み合わせの不連続のデジタルなのである。その周期が短いので、我々には連続したアナログと近似した音として認識されるが、実際には異なるものである。あくまで、合成的に作り上げたものである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　音楽をやっていると、人からよく誤解を受ける。私は今でも企業の経営者でもある。何かの目的がなければ、音楽などやらない。楽しいからやるのもあるが、習得するのは、なんどもしんどいものである。この歳で、新たなものをチャレンジすることは、道楽でやるのではなく、やらなければならないからやるのである。何かの目的や利や道理や義がなければ、しんどいことなどあえてやる馬鹿はいない。ＣＡＤも、仕事がら、遣り通した。今度、プログラマブルコントローラーの総合シーケンサー支援ソフトを購入し、自分で作り上げた原理の主要な部分を、自分でＣＡＤで機械製図して、それを作って組み立てて、その装置の制御をプログラマブルコントローラー（ＰＬＣ）をつかって、制御し動かそうと思う。仕事である。決して、楽しいことなどない。しかし、ある程度、分かってくると、木しか見えなかったものが、全体の森が見えてくると、やることはしんどいが、すこし、面白みが出てくる。分からないから、面白くない。分かってきて、そのロジックがみえてくると、何でも意外と簡単なものである。ほとんどの場合が、食わず嫌いなのである。私がやっている音楽も私の周囲の人には、その因果関係は分からないだろうが、いずれ、なるほど、と思える日が来ると信じている。その前に、私が先にあの世へ帰ってしまったら、それはそれでしかたがない。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　ギターの練習ほど、ボケ防止には最高なものはない。左手で、弦を押して、右手で、奏でるという単純な作業である。弦の科学を物理的に見る必要もない。耳で聞いて、綺麗な音が出ているかどうかを判断すればいいのである。単純である。しかし、そう、簡単に綺麗な音が、和音として、協和、共鳴することなどない。開放弦、一つか二つを押さえる程度であれば、誰でも、それなりの音がでる。それでは、音楽にはならない。もちろん、ある程度、ギターをやるにしても、それなりの音楽の知識は必要であるが、しかし、何かの曲を弾きたい程度であれば、コードどおり、鳴らせば、いいので、小賢しい理屈など不要である。そう、だれでも、簡単だと、思う。しかし、実際は、非常に難しいものである。特に、コードＦを綺麗に奏でようと思うと、それなりの努力が必要である。私の左手の指先は、すこし腫上がっている。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/11/post-509.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">音楽</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 01 Nov 2009 18:19:02 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>大きな政府による資産デフレ解消策を講じない限り景気は浮上しない。</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　ホンダが、主要取引先の部品メーカーに対し、国内工場での人件費や維持費などの固定費を３０％削減するように要請したことが、先週ニュースで伝えられた。つまり、もう、発展する要素が限界に達し、ピーク時の７割前後で、需要と供給のバランスが均衡することを意味する。世の中には、限界が必ずある。１００ｍのオリンピック記録は、絶対に０秒台にはならない。９秒５８がでれば、９秒５７９になり、さらに、細分化すれば、９秒５７８９になる。どこかに、必ず収束点が存在する。経済も右肩上がりはないし、対数的に、どこかで、寝てくる。ねずみ算のように無限にひろがらない。昔は、どんぱちと戦争で破壊しては作り、作っては壊してやりくりしていた。経済は生き物のように戦争と共に成長してきた。それだけ、地球は大きく、人間の欲望を吸収できる大きさがあった。残念ながら、もう、それはこの世にはない。核兵器が出来た以上、打てば、すべてが終わるというシステムが出来たからである。だから、破壊と再生の文化はもうない。よほど、世界同時地殻変動がおき、巨大大地震と噴火と大津波が全世界を飲み込み、この世の文明を消し去る以外には、リセットはこない。これからは、限られた資源を、限られた空間の中で、限られた人類で分け合うことしか出来ないはずである。ある意味、原始共産制に近い状態が、今後、今世紀の末から、数百年、いや数千年、それ以上、半ば永遠に続くはずである。ある意味、江戸鎖国時代の地球版が起きるはずである。そのとき、人類は宇宙空間に出て行けるかどうかである。仮に出て行っても、人の命の長さには変化がない。きっと、どこかで、人間の狂った欲望から、コンピューターのウイルスではないが、本物の人の抗体に打ち勝つ新種のウイルスをつくり出すだろう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　短期的にみて、ある程度中国の経済成長が飽和しないかぎり、日本のデフレはとまらない。中国が市場経済に参入し、価格を押し下げたからである。中国の一人当たりの<span lang="EN-US">GDP</span>が、日本の７０％前後に達しない限り、日本の製造現場に活気はやってこない。すくなくとも、後２０年は、このままの状態が続くはずである。その要因は、資産デフレがあるからである。それを解消するには、バブル時での個人や法人の借金を消さなくてはならないからである。今の問題は、資産が目減りしていながらも、借金の額が変わらない点なのである。消費が上向かないのは、みんなが借金の返済に追われているからである。そして、中国からの安いものがどっと流れてくる。あきらかに、デフレである。しかし、時価の価値は暴落しても、借金の総額は変わらない。価格は下がる。給料は下がる。消費は落ちる。資産価値は下がる。しかし、借金の額は変わらない。内需が上向くはずが無いし、外需で韓国や中国の輸出型産業と勝てる力はない。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　あきらかに、２０００年以降の小泉改革は、錯覚であったはずである。中国が参入してくる。安いものが入ってくる。中国に対する設備投資で、一時は日本は潤う。しかし、その生産設備で作る商品が日本を直撃している。パイは実は増えてなく、総額はかわらず、分配率がかわったのである。貧乏人を多くし、大金持ちを作ったのである。生産設備など、抽象的である。最先端のミサイルを作る設備を中国に輸出したとしよう、たしかに、それで一時軍需特需で、景気がよくなるようになる。しかし、それが、中国に配置され、ミサイルがつくられ、それが、日本に打ち込まれたら、日本はいちころである。それの経済版が起きているのである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/10/post-508.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">経済</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 31 Oct 2009 17:34:28 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>念力と呪詛　</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　念力や呪詛など、必殺仕事人の世界だと思っていた。晴らせぬ恨みを晴らしてくれる裏の家業の世界など、作家の絵空事だと考えていた。自分を裏切り、自分を陥れた人に対する怨念をこの世で晴らすために、わら人形や丑の刻参りなどの呪術など、陰陽道や妖術の一つのパフォーマンスだと考えていた。ある意味、呪いの力、念力で、人の運命など、変えることなどできるなどと、想定はしてなかった。しかし、世の中、確かに不思議なことがおこるものだと最近思ってきた。念力や呪詛も、過去から現在まで語り継がれ、ある意味、実践されてきた。普通の人は、死をおそれる。それと同じような感覚で、呪詛やのろいも恐れる。その心理は、やはり自我があるからである。自分が自分であり続けたいという我執があるからである。そのために、その我執の存在を否定されるほど、恐ろしいものはない。自分が幻想なら、己の死も幻想であり、己の生も幻想である。そうなれば、呪詛も呪いもまた幻想ということになる。しかし、自分の存在を誰も幻想とは思わない。利己的な現世利得、自分が相対的に裕福であることをただ願う。だから、そういう人ほど、一神的に、何かにすがる。贖罪を求めて懺悔する。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　ネットで、呪詛を検索すると、あなたの恨みをはらしますというわけの分からないものが出てくる。丑の刻参りで、呪詛をかけても、たぶん、何も生まれない。相手が、自分の心の中に一点の曇りもなく、明鏡止水の心境で、真実一路で生きていたら、呪詛もなにもない。逆に、利得で呪詛を掛けた因果が己にかえり、掛けようとした人自身が、その呪詛にかかって身を滅ぼすことになる。呪詛にかかるように見えるのは、掛けた相手に、それなりの因果を受ける記憶やそれに対する罪悪感がある場合である。たとえば、子供のとき、誰でも、蟻を踏み潰した経験をもつはずである。昆虫を殺した経験をもつはずである。今でも、ハエや蚊がいれば、殺すことに誰もためらいは持たない。子供のときは、罪悪感も感じなければ、その記憶も遠くに隠されているから、それに対して、どうのこうのがないのである。しかし、それは、悪いこととだと洗脳していけば、だれでも、その虫のたたりと恐れおののく。そして、自縄自縛に係り、自分で自分の免疫機能を乱し、自分を自分で滅ぼすはずである。それが、呪詛である。相手に罪悪感があること、それを増幅させて、相手の心のなかで、成長させれば、人は自爆する。心因性、自因性で、人は自分の呪いにまけて、乱れて消えるのである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　確かに、自分の我欲でこの世をみれば、すべては確率論的にゆらいで重なっているものが、一つに収縮されていると感じる。だから、一つの世界しかみえない。因果律だけが見える。いくら考えても、その因果律の枠の中でしか物事を見て取れない。念力や呪詛など、あるわけが無いと思う気持ち、それ自身がそれらを否定する。何故否定するか、否定しなければ、自分の我欲も否定しなければならないからである。我欲の反対は、無我である。無我を意識した瞬間に、無我ではなく、有我になる。有我が生まれれば、一つしかみえない。そこに、何かしらの無限に近い波動の曲線群があっても、自分という我執があるため、たくさんある目に見えないものの中で、その我執にあったもの一つが、その人の面前に出現することになる。見えないけど、なにかは存在してゆらいでいる。それを霊と呼べば、無限に近い霊が自分の周りを縦横無尽にゆらいでうごめいている。普通は、そんなことを言っても、相手にされない。無視されるだけである。そういう人が本当にそれに耳を傾けるのは、体力が落ちたときである。我執を支えるだけのものが、失いかけたときである。最後までタバコを吸おうと思っている人が、たばこを吸えなくなったときが、あの世へと帰るときだと考えたほうがいい。そのとき、そうだったのかと分かると思いたい。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/10/post-507.html</link>
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            <pubDate>Tue, 27 Oct 2009 18:37:14 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ガソリンスタンドの店長も、IGA腎炎であった。</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　私は、いま、副腎質ホルモン剤を飲んでいる。<span lang="EN-US">32</span>年ぶりに再発した微小変化形ネフローゼの治療のために服用している。病状は治まって、仕事はしている。しかし、副腎質ホルモン剤は、すぐには切れないため、すこしづつ、医者の指示に従って減量中である。人によるが、やはり、だんだんと副作用が出てくる。人それぞれであるが、私の場合に、特に精神に影響を与えているようである。副作用は、何も悪い方向だとは限らない。いい面と悪い面の作用がでてきている。いい面は、免疫力を抑えているため、我欲が薄れている。天に近くなっている。ある意味、今まで、気づかなかった発想が、どんどん生まれている。悪い方向は、なぜか、感受性がより敏感に反応する。だから、非常に無常を感じる。相対的に変化する人の命、それと、変わらないもの、時間の流れの中で、それらはそれぞれ変化する率が異なっている。子供は成長する。親は老化し、あの世へと帰る。自分は老化する。しかし、自然の風景は変わらない。当たり前の話である。その変化する率、それ自身がまた変化する。余計、無常観が突き上げてくる。時間軸に対しての世の中の流れの加速度（速度の変化）の変化、空間軸に対しての世の中の流れの加速度の変化、それらが、重なって、私の意識をよぎる。世の中の無常が心を切なくする。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　仕事があって、東京まで車でいった。関東へ行く前、ガソリンをいれにガソリンスタンドによった。久しぶりに若い店長にあった。「お久しぶりやね」と声をかけた。「エンジンオイルでもみますか」と声をかけられた。「しばらく、入院していたから、車にはのってないから、奇麗だと思うよ」といった。若いといっても、<span lang="EN-US">30</span>代半ばである。大阪の言葉で言えば、若いお兄ちゃんという感覚である。エンジンオイルをみて、「確かに奇麗です。どころで、どこが、悪かったのですか」と聞いてきた。「腎臓でね」と答えた。そうすると、店長は「僕も腎臓が悪いのです」といった。えっと私はその店長の顔をみた。私は、「<span lang="EN-US">32</span>年ぶりに、ネフローゼを再発し、○○病院に入院していたのです」と話した。「ネフローゼですか、大変ですね、私は、<span lang="EN-US">IGA</span>腎炎です」と店長はいった。「蛋白はでているのですか」と私は尋ねた。「蛋白はそれほど、出てませんが、定期的に、病院に検査入院して、経過を観測しています」と言った。店長が入院している病院も、腎臓では有名な大学病院であった。「あまり無理をしないでくださいね」と店長は私にいった。もちろん、無理など、するつもりはないが、その話を聞いただけで、私は一気に無常を感じた。悲しくてやりきれない気分に陥った。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><font color="#000000"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US">　IGA</span><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">腎炎は、普通は聞きなれない言葉である。<span lang="EN-US">IGA</span>は免疫細胞の一種であり、のどや気管支や胃腸などの粘膜を病原菌から守るものである。病原菌をやっつけた<span lang="EN-US">IGA</span>細胞（病原菌と<span lang="EN-US">IGA</span>の複合体）が、血液の中を通って、腎臓に送られ、糸球体の中にたまると、今度は、白血球が遺物として、その腎臓の糸球体を攻撃し、炎症を起こす場合がある。これが、<span lang="EN-US">IGA</span>腎炎である。これも、よく分らない病気である。入院中、<span lang="EN-US">IGA</span>腎炎の患者と話したことがあった。扁桃腺を切除するために、入院したそうである。いずれ、腎機能が落ちてきて、透析になる可能性があるために、<span lang="EN-US">IGA</span>腎炎にかかっている人は、定期的に検査入院をして今の状態を観察しているそうである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></font></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/10/iga.html</link>
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            <pubDate>Mon, 26 Oct 2009 21:51:23 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>あの世に帰るという意識</title>
            <description><![CDATA[<span lang="EN-US"><o:p><font color="#000000" size="3" face="Century"> 
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　元、フォークルセダーズの加藤和彦さんが、軽井沢で自殺した。うつ病による自殺という報道が一部に流れた。<span lang="EN-US">62</span>歳だそうである。死に急がなくてもいいものだと思うが、本人にとっては、この世で生きていなくない思いが強かったのだろう。嘗て、テレビ界を賑やかにしていた山城新伍さんも、死去した。再放送で昼間、<span lang="EN-US">2</span>時間ドラマで刑事役で出演している元気な山城新伍さんを見るにつれ、つくづく、もののあわれを感じる。渦潮も台風も、最大の勢力を持つときが一瞬ある。極大値である。それまで、成長し、それから下降する。人間の一生もほぼ同じである。最近では、大原麗子さんも、飯島愛さんも、テレビから映る印象とは裏腹に、寂しい孤独死を迎えている。今、テレビで華々しく活動している人も、ところてんのように、つぎからつぎへと押し出されていく。昨今は、広告収入がへっているため、安価や売り出しの若手芸人を次から次へとテレビに出す。製作原価を抑えるためである。そして、一芸、半年の周期で、芸人やタレントは消えていく。サーフィンのように、いつも、大きな波の上にいられる人は、ごくまれである。逆に、いること自身、奇跡にちかいものがある。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　核家族化がすすみ、これまでの家という概念が崩壊した。少子高齢化で、後を継ぐ人もいない。仮に今回は、継げても、次は、継げる保証などない。祖先の墓の供養も、いつかは途切れる。地球温暖化ではないが、後<span lang="EN-US">30</span>億年後には、かならず、この地球は太陽にのみこまれて、なくなってしまう。それ以前に、太陽の膨張により、地球の気温はあがり、水は干上がり、生物は枯渇する。時間はかならず、流れているため、その日は、気の遠くなる時間だが、やってくる。なぜなら、この宇宙がうまれてから、今、すでに<span lang="EN-US">150</span>億年が経過しているからである。したがって、それは必ずやってくる。それは、ひとりひとりの命が死というものを内在するのとおなじように、避けられぬものである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　だから、我々が観察する物理現象から想像するこの世の末路は、寂しく憂鬱なものである。だから、そう考えれば、必然的に、虚無的になることは避けられない。視点が、この世に、固執している限り、現世利得で得たものを、永久に保持したいと誰もが考える。そう思い込ませてくれるものに、だれもが心引かれる。人をだまして富を築いた人も、結局は、この世に残った人にだまされ、富を失う。永代供養など、本気で信じている人などいない。死後の憂いをこの世で晴らす、単なる気休めでしかない。それは、この世が表であり、あの世（生まれる前と死んだ後）が裏だと考えるからである。それが、逆だと、考えれば、あの世からやってきて、この世でがんばって、あの世へ帰るという意識にならざるを得ない。この世で生を受ける確率は、奇跡に近い。そして、自分という自我をもち、自分を組織化し、自己が成長していく過程の間で人は自分の記憶をもつことになる。こんな素晴らしいことは、ないはずである。生まれる前も死んだ後も、記憶などない。つまり、自分などないのと同じである。恐ろしいことだが、それを受けとめられなければ、老後など、恐ろしくて生きていけないし、親族を残して死ぬことなどできない。どんな宗教の、どんな宗派の洗脳をうけても、かならず、その矛盾が心をよぎる。いくら、それを否定し、自分が信じようとした宗派の論理を繰り返し読み返して、自己洗脳や自己催眠をかけても、その矛盾は、どこかに残るはずである。それが、どうしても心のひずみやゆがみとして、現れる。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"></font></o:p></span>&nbsp;</p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ 明朝'; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font color="#000000" size="3"></font></span>&nbsp;</p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/10/post-506.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">宗教</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 20 Oct 2009 10:09:54 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>死後の世界について</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　今のところわかっているのは、人は死の瞬間から、どうしてだか分からないが、自分の<span lang="EN-US">DNA</span>を切っていき、そうして、脳内麻薬をだし、安らかな死を迎えるようである。その後は、どうなっていくのか、定かではない。ただ、人の死を外部からみれば、石のようにつめたくなり、そのうち、酸化して腐敗していく。腐る前に、火葬を施すのが、今の葬儀である。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　誰でも、死が怖いはずである。しかし、その死をおそれず、自ら死んでいく人もいる。私は、若いとき、長期間、入院していたことがあるので、そのときは、朝に戯れのない話をしていた人が、次の日には、いなくなっていたことがたびたびあった。人の命ほど、無常というものはないと感じたものだった。ある意味、最後の死を見届ける看護師ほど、辛い仕事はないと思う。感情移入してはいけないと思いながらも、感情が入るのが人間である。患者の死を面前にして立ちつくす医者や看護師の後ろ姿ほど哀しいものはなかった。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　法華経を読むと、釈迦は、迹仏であり、本仏というものが、もともとあるというのが書かれている。もちろん、人類が誕生する前から、この宇宙は存在するのであるから、本仏というのも、人間の脳からみたその仏のイメージを仏教の論理で人が分かる言葉に直したものである。また、それを法華経の世界観からみれば、久遠の実相という言葉にもなる。私からすれば、森羅万象であり、（命の）エネルギーということになる。なぜ、命に括弧がつくかは、そのエネルギーと相互作用するから、何かが運動（回転、並進）し、そこから、命が生まれると想像するからである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　いくら、考えても、なぜ、エネルギーがあるのか、わからない。なぜ、この宇宙が存在しつづけるのかもわからない。この世の中は、分からないことだらけなのである。平面の中で生活している人が、その平面の裏側の空間を理解できないのと同じである。しかし、エネルギーは、あるのである。あるから、我々が、こうして命をつないで生きていられるのである。そうして、今、自分という自我があり、自分が何かを感じ、何かを考えているのである。我々の思考では、何かがあれば、その何かを生んだ何かがあると普通は考える。因果関係である。何故かわからないが、エネルギーがある。だから、それを生んだもの、それと因果を持つものがどこかにあると、考える。なぜあると考えるかは、考える自分がここに、存在していることが、それを証明しているからである。もっと、いえば。そのエネルギーを生じたものがある。また、それを生じたものがある。つまり、無限の因果が連続することになる。そうなれば、わからないというのが正解になる。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　我々が期待するのは、自分の中にある記憶が永遠に保持されることである。しかし、それはない。記憶喪失や記憶が失われていく人をみれば、それがわかるはずである。死の瞬間、<span lang="EN-US">DNA</span>を切っていくのは、ある意味、記憶を消していく作業と同じだからである。死んだら、どうなるのか、結局、何もかわらないはずであるし、何もわからないはずである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　毎日、我々は、寝る。たまたま、我々は、次の日に眼が覚めて、寝たときやそれまでの記憶を思い出す。そして、自分が自分を認識できて、はじめて、今、生きていると実感できる。もちろん、そうでない人もいる。睡眠中に、大地震がおき、そのまま帰らない人となることもあるし、心筋梗塞をおこし、そのまま、あの世にいくこともある。仕事をしていても、突然、意識が不明となり、そのまま帰らぬ人となることもある。傍からみれば、人の死はわかるが、自分にとって、自分の死など分かるわけがない。分かるというのは、自分が生きている証拠でもある。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　死後の世界を色々と創造する人がいる。日本人が、昔から愛したのは、草木皆悉有仏性というイメージである。この自然の中の命をはぐくむものすべてに、霊がやどるというものである。霊とは、あるいみ、エネルギーである。東洋的には、気というエネルギーかもしれない。死後の霊、それが、自分をはぐくんだ故郷に帰るだろうという希望が我々にはある。それが、祖先の供養という考えになる。父、母、祖父、祖母、自分の命を生じたものすべてが、霊として、森羅万象にあるということになる。突き詰めれば、今の自分があるのは、地球がうまれたからである。その地球がうまれたのは、この宇宙があるからである。つまり、森羅万象のすべてが、霊としてあることになる。自分とは、そのエネルギーの一部であり、生まれる前もその一部、生まれたら、その中で、そのエネルギーをうまく自分で組織化して使い、そして、死んで、再び、そのエネルギーのなかに、吸収される。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　それが、すべてであり、それ以上でもそれ以下でもない。人の一生は、それを悟るための過程だと考える。それがわかれば、じたばたする必要もない。あるがままに、あるがままを受け入れ、あるがままに、命を全うしていけばいいことになる。１０歳で亡くなる人もいる。３０歳で、５０歳で、８０歳で、１００歳で、それは、それでそういうものである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　そう、じたばたするのが一番よくない。乱れたら、良くないのと同じである。昔、私は、海で溺れそうになった。急に、深いところにきて、足が立たなくなった。私は、慌てじたばたした。じたばたすればするほど、逆に海の中に引きずられそうだった。そのとき、ふときづいた。苦しくとも、息をとめた。体を浮かし、ゆっくりとバタ足で、岸の方へむかった。そうして、足が立つと頃へきたと思って、足をつけた。命拾いをしたと感じた。もし、慌てていたら、死んでいたはずである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　聖徳太子、最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮、それぞれの聖人が最後に感じた世界とは、異論はあると思うが、きっと、そのあるがままという境地であったと私は想像する。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/10/post-505.html</link>
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            <pubDate>Sat, 17 Oct 2009 12:39:21 +0900</pubDate>
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            <title>微小変化型ネフローゼ症候群</title>
            <description><![CDATA[<span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000" size="3"> 
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　ここ数ヶ月、ブログを停止していた。そうしたら、偶然、今日、仕入れ先に、仕事の関係で問い合わせをしたら、ブログをみてますよといわれた。なぜ、最近、書いていないのですかと質問された。何かあったのかと心配してましたよといわれた。そういう見方をしているひとがいるのかと、思った。実は逆だったのである。６月の中旬から８月中旬まで、私は、ネフローゼに罹り、入院をしていたのである。入院中に、何かあっては、対外的に困ると思い、ブログを書き、退院してから、色々とやらなければならないことが重なり、あえて、ブログをとめていたのである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　私の病名は、微小変化型ネフローゼ症候群である。これで、４度目の再発である。この表題を微小変化型ネフローゼ症候群にしたのは、できるだけ、検索にひっかかり、いまでも同じ病気で苦しんでいる人の目にこれがひっかかり、これを読んでもらいたいとおもったからである。そして、その人たちに生きる勇気をあたえたかったからである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　私が最初にネフローゼに罹ったのが、１５歳のときである。それから、１７歳、２１歳と立て続けに、再発を繰り返した。そのために、人よりも、社会にでるのが、なんやかんやで、４年もおくれてしまった。その当時も、今でも、副腎皮質ホルモン剤しか、治る方法論がない病気である。当時、おなじステロイド投与されていた白血病患者、同じ年齢で仲のよかった、筋ジストロフィーの患者、一緒に入院していた人たちは、もう、だれもこの世には生きてはいない。ステロイドは、今でも主として難病に対しての特効薬だからである。だから、副作用も他の薬に比べると相当きついものがある。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　なぜか、私は、２１歳から、５３歳まで、３２年間、ネフローゼを再発もすることもなく、いままで生きてこれた。今回もたまたま、尿たんぱくが陽性＋３がでていただけで、血中のアルブミンの低下もむくみもなかった。ネフローゼの症状が出る以前だったのだろう、入院した病院の担当医者もこれはネフローゼとは違うと考えていた。しかし、私には、昔の記憶があった。もともと腎生検での検査入院が目的だった。予定通り、腎生検をおこなった。綺麗な腎臓であった。そして、その後、ネフローゼの兆候が現れた。検査から治療へと入院目的がかわった。昔とことなり、多量のステロイドを点滴で３日間投与された。ステロイドパルスという治療方法である。その後、プレドニンを一日５０ｍｍｇ投与された。私の場合、陽性＋４まででていたのが、それで、２週間で陰性になった。医者はいった。３２年間目の再発など、非常に珍しいケースで、しかも、腎生検でみても、綺麗な腎臓である。ステロイドが有効にきく、微小変化型のネフローゼである。私は、今回も助けられたと本当に思った。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　たしかに、学歴よりも病歴の方が自慢になるが、２１歳から、いろいろなハンディに打ち勝って、何とか人並みに生活できている。波乱万丈であったが、今後も波乱万丈を繰り返せと神はいっているようである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　入院中、やはり病気に関する情報がほしくなった。ネットで、ネフローゼをひいてみた。辛い記事をみつけた。「私は、２１歳です。ネフローゼ症候群を患って、再発を繰り返しています。私は将来が不安です。このまま、生きていられるのか、とても不安に感じています」この文書をネットでみたとき、私は、昔の自分を見ているようだった。私も同じだよといってあげたかった。まっすぐ、生きていたら、なんとでもなる。病気にめげず、がんばればなんとかなると、本当に言ってあげたかった。入院中、風呂場で腎臓病をわずらっている人と一緒になるケースが多々あった。病気で入院する人である。それぞれ、辛い病歴と過去がある。それをひとりひとり私は聞いていった。失礼だとおもったが、相手の孤独がわかったから、こちらから話かけた。私は、蛋白がとまれば、いずれは正常にもどることを確信していた。しかし、その多くの腎臓病の人たちは、尿たんぱくは陽性のままで、近い将来、腎機能が低下し、ほとんどの人が透析を受ける運命の人だった。私に、一人の若い腎臓病患者が問いかけてきた、子供が８歳と６歳いるそうである。がんばらなければいけないですよねと、私は、当然ですというのが、精一杯だった。それ以上、何もいえなかった。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　入院していた病院には、小児科病棟があり、そこに院内学級があった。<span style="mso-bidi-font-weight: bold">院内学級とは、学校教育法でいう障害児の中の病弱児にあたる子供たちが、入院中、教育を受ける権利を提供される教室のことをいうそうである。慢性疾患で、半年以上の長期入院が必要な子供たちが対象である。私は、病気で、学校には行けなかった。中学と高校と留年を繰り返した。多情多感な年齢である。友達から取り残される寂しさがどれほどのものか、十分に味わってきた。だから、院内学級があれば、どれだけいいかと思ってきた。しかし、それをみるのもつらいものがある。子供や青年はやはり病院にいるべきではない。元気で外で遊んで活動するのが良いに決まっている。いまは、自分の病気や事業を平滑化するのに精一杯だが、そのうち、その子供たちのために、何かできればいいと本気で思っている。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-weight: bold" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-weight: bold">　今、現在、プレド二ンを２０ｍｍｇのんでいる。４週間に、５ｍｍｇ前後の減少率で落としていっている。いずれは、０になる。副作用が徐々にきている。しかし、徐々に落としていっているので、少しは楽になっている。ある意味、体は、半年まえを覚えている。十キロを一時間弱で走り抜けていた体であった。老化曲線上でおちていく体に逆らって、無理をした結果再発したのかもしれない。しかし、逆にいえば、体を鍛えていたから、この程度で踏みとどまったともいえなくはない。医者から、マスクはしろといわれている。プレドニン（ステロイド）で、自己免疫力が低下しているからである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　私には、たいした学歴もない。資産家の家でもない。すべては、自分の才覚だけでここまでやってきた。自分を支えたのは、病歴である。そして、病気を通してはぐくまれた感受性だけである。自分で新たな原理装置の国際特許を取得した。会社も設立した。音楽もやって、シンガーソングライターの真似事までした。今では、<span lang="EN-US">CAD</span>で自分が開発した装置の製図化までしているし、これからは、<span lang="EN-US">PLC</span>をつかって、シーケンスプログラムまでやろうとしている。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　そう、生きていたら、何でも出来る。今は、底なしに暗いと感じているだろうが、明日を信じて、がんばって、治ると信じれば、病気は必ず治るものである。そう、私にできることは、こんな私でもがんばれば、今日よりもっと大きくなれるということを若者に実証してみせてあげることである。だから、がんばるのである。それ以外には今はもうない。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　私は死を見続けてきた。神とは、森羅万象の力の働きだと感じている。生きることは、その力と相互作用することだと感じている。いずれは、その森羅万象に還元されると思っている。それでいいとおもっている。しかし、いまは、生きれるところまで生きてみようと思っている。死がきたら、それまでだと思っている。がんばれるまでがんばってそれで死がきたら、それでよしと思っている。この世には、なぜかエネルギーがある。力の作用がある。その目に見えない力線上に相互作用しているのが、私でもある。だから、それが、乱れれば、私も乱れ、私の内部が乱れたら、その力線も相互作用的に乱れる。それが私が作り上げた装置の原理でもある。乱れの制御である。病気も同じだと考えている。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt">　ネフローゼ症候群や腎臓病や他の病気で苦しんでいる人が、この微小変化型ネフローゼ症候群のキーワードで、このブログの文章に気づいてくれることを願うだけである。私でもここまでこれた。若い人なら私以上に大きくなる可能性は十分にあると信じてがんばってほしいと願うだけである。もし、ステロイドがなければ、私は１５歳で死んでいた。そして、今回もステロイドで命が継続されたようである。助けられた命である。生きれるまでがんばるつもりである。こういう人もいる。だから、２１歳のネフローゼ症候群に苦しんでいる青年に伝えたい。がんばれ、あきらめるなと。本気でそう思ったから、このブログを、嘘偽らずに書いたのである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"></font></o:p></span>&nbsp;</p>]]></description>
            <link>http://www.memoriaaquae.com/blog/2009/10/post-504.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">General</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 15 Oct 2009 22:41:19 +0900</pubDate>
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            <title>酒井法子容疑者、逮捕、日本の社会構造の地殻変動の予兆かな</title>
            <description><![CDATA[<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　誰でもが、一瞬、えっと疑う。誰でもが清純で、清楚なイメージをもつ女優だとおもっている。夫の高相祐一容疑者が、麻薬所持の現行犯で捕まったあと、酒井法子容疑者が、子供ともども失踪したと、報道が流れた。誰でもが、夫に裏切られた妻の傷心と錯覚した。音信不通、山梨の法華の総本山のある身延町内で、携帯の電波が切れたとの報道もあった。酒井法子容疑者の音楽事務所の社長がテレビで出てきて、最悪の事態を想定していると示唆した。考えてみれば、実に恐ろしいことである。ある意味、集団で催眠に掛けられて、ある方向へ洗脳、誘導されているようであった。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　もし、酒井法子容疑者が、覚醒剤が体内から排出されるだけの日数を逃げとうせたら、所持は立件できても、常習は立件できない。誰もが、酒井容疑者が覚醒剤をやっていたとは想定していない、だから、出て来れないのは、出て来れない状況がおきた。自殺か、自殺を逡巡して、孤独の中で、死に場所を探しているという演出をかけたとしか考えられない。富士山の樹海を連想させるようなものである。ある意味、寺院、お父さんの事故死の場所、山梨、精霊冨士である。そして、携帯を切っている。いまどき、どこでもコンビニはある。補充バッテリーなど、どこでもある。携帯を切ったのは、自ら、現実の社会との交流を切ったという意図をもつ。これを酒井法子容疑者が単独で考えたとは考えられない。当然に警察も酒井法子容疑者の裏で彼女を幇助し彼女の行動に演出をかけている人かグループがいると、疑ったはずである。あまりに、計画的な動きが見え隠れするからである。だから逮捕状をだし、これ以上、手を出すな、犯人幇助、証拠隠滅で、捕まえるぞと、酒井法子容疑者側に警告を発したのである。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt" lang="EN-US"><o:p><font color="#000000">&nbsp;</font></o:p></span></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: 'ＭＳ ゴシック'; FONT-SIZE: 10pt"><font color="#000000">　実際は、子供は、友人にあずけられ、酒井容疑者は、都内に潜伏し、身柄の交渉は、酒井容疑者側の弁護士を通して、なされたのである。あきらかに、どこからか、水面下で、酒井法子容疑者側と司法関係者側で、接点をもったはずである。たぶん、むかしなら、酒井容疑者のような大物なら、うやむやにされていたかもしれない。現行犯逮捕以外は、証拠が特定されないからである。今回でも、決め手となったのは、<span lang="EN-US">DNA</span>鑑定である。科学捜査である。酒井容疑者の自宅で押収されたものが、酒井容疑者本人が使ったのか、第三者なのか、言い逃れが出来るからである。たぶん、酒井容疑者の弟が福岡で捕まったときから、警察は、酒井容疑者周辺をマークしていた。これ以上、覚醒剤や合成のドラッグを蔓延させてはいけないという強い社会正義が検察、警察で動いていたのかもしれない。それ以前から、司法関係者は、酒井容疑者に、何かしらのメッセージを送っていたはずである。覚醒剤はやめろ、足をあらえ、洗ったなら、いい。しかし、それを無視して、酒井容疑者は突っ走ってしまった。どこかで、驕れと慢心が生じ、社会全体の秩序がみえなくなったのかもしれない。司法関係側は、裁判員制度の<span lang="EN-US">PR</span>映画まで、酒井法子容疑者に主演させたのである。人情が動いて当然である。酒井法子容疑者のファンも司法関係者でいたはずである。無念であったろう。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></font></span></p>]]></description>
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            <pubDate>Sun, 09 Aug 2009 08:21:04 +0900</pubDate>
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